猫弁3 猫弁と指輪物語 大山淳子 [#(img/03_表紙.jpg)] [#(img/03_001.jpg)] [#ここから2字下げ、折り返して9字下げ] 百瀬《ももせ》 太郎《たろう》[#「百瀬 太郎」はゴシック体]  通称猫弁。天才とぼんくらの二面性をもつ。 大福《だいふく》 亜子《あこ》[#「大福 亜子」はゴシック体]  ナイス結婚相談所職員。百瀬の婚約者。 野呂《のろ》 法男《のりお》[#「野呂 法男」はゴシック体]  百瀬法律事務所の秘書。法律オタクで独身。 仁科《にしな》 七重《ななえ》[#「仁科 七重」はゴシック体]  百瀬法律事務所の事務員。実質、猫のお世話係。 柳《やなぎ》 まこと[#「柳 まこと」はゴシック体]  まこと動物病院の美人獣医。 寿《ことぶき》 春美《はるみ》[#「寿 春美」はゴシック体]   亜子の後輩。ふくよかで、野心家。 梅園《うめぞの》光次郎《こうじろう》[#「梅園光次郎」はゴシック体]  百瀬が住むぼろアパートの大家。 白川《しらかわ》ルウルウ[#「白川ルウルウ」はゴシック体] 舞台女優。密室で猫を飼っている。 土田《つちだ》 帆巣《はんす》[#「土田 帆巣」はゴシック体]  金城武にそっくりなトラック運転手。 小《こ》   松《まつ》[#「小   松」はゴシック体]  わがままな依頼人。 味見《あじみ》 克子《かつこ》[#「味見 克子」はゴシック体]  就活中の女子大生。 ミスター美波《みなみ》[#「ミスター美波」はゴシック体] 親切すぎる美容コンシェルジュ。 大河内《おうこうち》三千代《みちよ》[#「大河内三千代」はゴシック体] 秋田の靴屋さん。 テ ヌ ー[#「テ ヌ ー」はゴシック体]  百瀬と暮らしている猫。 ルウルウ・ベベ[#「ルウルウ・ベベ」はゴシック体] 密室で飼われているメインクーン。 坂本《さかもと》 龍一《りゅういち》[#「坂本 龍一」はゴシック体]  黄色いビルマニシキヘビ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]       目 次   第一章 黄色いヘビと灰色猫   第二章 密室猫妊娠事件   第三章 三千代の靴   第四章 ワトソンの指輪   第五章 ハンスと花びら   第六章 くるくるキャット       装画 カスヤナガト       挿画 北極まぐ       装幀 next door design       印刷 豊国印刷株式会社       製本 大口製本印刷株式会社       協力 北川雅一(TBSテレビ) [#(img/03_003.jpg)] [#見出し]   第一章 黄色いヘビと灰色猫  舞台はクライマックスを迎えた。 「わたしを見捨てる気ですか?」  泣きながら追いすがる金髪の貴婦人。それを黒髪の貴婦人が冷たく振り払う。 「見捨てる? なんのことです?」  すると金髪の貴婦人はひざまずき、悲痛な声で叫んだ。 「ポリニャック公爵《こうしゃく》夫人!」  黒髪のポリニャック公爵夫人は、まるで子どもに言い聞かせるように人差し指を立て、静かにさとす。 「いいですか? わたくしは子どもがいて、夫もいる身です。家族の命を守るためにこの国を出るのは、母としても妻としても正しい行いなのです」 「わたしだって、母だし妻ですわ」 「いいえ、違う!」  ポリニャック公爵夫人は身をひるがえすと、よく通る声で断言した。 「あなたは王妃マリー・アントワネットです!」  アントワネットはびくっとして固まった。  観客はその迫力におののき、息を呑んで舞台を見つめる。  ポリニャック公爵夫人は両手でアントワネットの顔を包み、やさしくささやく。 「おお、わたくしの愛する王妃。お別れです」  そして一歩一歩あとずさり、じゅうぶんな距離をとると、叫んだ。 「背筋を伸ばすのです、王妃! 国民のために、いさぎよく死になさい」  アントワネットはよよと泣き崩れた。  ポリニャック公爵夫人は片手をすっと斜めに上げると、まるでそこに未来があるかのように、暗闇に指を差す。すると闇からぱっと青いライトが差し込み、場内はしずまりかえった。  幕はするすると降り、観客はハッと我に返り、拍手がぱらぱらと鳴り始め、やがて場内は割れんばかりの拍手と歓声でいっぱいになる。  観客はもう一度幕が開くのを待った。再び幕が開くと、中央にマリー・アントワネット、その左に夫のルイ十六世、右には愛人フェルゼンが立ち、手を振り、膝を曲げ、貴族的|挨拶《あいさつ》で拍手に応える。  後方の席で見ていた四十代の主婦は、隣の友人にささやく。 「あれ? ポリニャック公爵夫人は?」 「後ろのはじっこにいるわよ」 「前列じゃないんだ」 「だって主役はアントワネットじゃない。タイトルだってほら、『ベルサイユの悲しいばら』だしさ。ポリニャックは悪役でしょ」 「でも一番かっこよかった。ポリニャックさん、いいわあ」 「あなたフェルゼン見に来たんでしょう?」 「思ったより背が低いんだもの」 「たしかにポリニャック、光ってた。セリフひとつひとつが胸に残るわ」 「なんていう役者?」 「えーと。あっ、老眼鏡忘れた! これじゃあパンフレット読めない。やだわあ、このあと天ぷら屋さんに行くのにメニューが読めないじゃない」 「あの女優、テレビじゃ見ない顔だよね」 「舞台専門なのかな、知らない顔だよね」  楽屋はにぎやかだ。  本日は誰も目立ったミスをせず、舞台装置のトラブルもなかった。衣装を脱いで化粧を落としながら、役者たちは会話をはずませる。 「やっと中日《なかび》。あと半分ね」 「良くなってきた。拍手も一番多かったし。てごたえ感じるわあ」 「飲みに行くでしょ」  明日は一日休みだ。ふだんは翌日の公演に備えてのどを温存しようと寡黙《かもく》になるが、今夜はみなおしゃべりを楽しみたい気分だ。  金髪のかつらをとりながら、若い女優が言った。 「どうです? 白川《しらかわ》さんも行きませんか?」  みな一瞬黙り、白川と呼ばれた女優の返答を待った。黒髪のかつらをとりながら、白川は「行きません」と言い、つけまつげをはがしにかかる。質問にきっちりと答え、過不足はない。こういう場合、過不足はあったほうがいい。みな顔を見合わせ、言葉が出ない。  白川は身支度《みじたく》を終え、出て行った。 「なにさま?」と声が上がったが、同調するものはいない。まだ楽日《らくび》ではない。公演の途中で仲間の悪口は言いたくない。  気まずい空気が残る。こなくてもいい。せめて迷ってみせるとか、なにがしかの言い訳をして、誘った人間の顔をたててほしい、それがみなの総意だ。誘ったのは舞台経験が少ないアイドルとはいえ、マリー・アントワネット、つまり主演女優なのだから。  衣装係は場をなごませようとする。 「悪気はないんじゃないですか? アメリカ式なんですよ。イエス、ノーがはっきりしているんです、白川さん」  するとルイ十六世が王冠を衣装係に渡しながら言う。 「でもあのひと、前は結構つきあいが良かったんだけどね」 「若い恋人でもできて、家で待ってたりするんじゃない?」 「あの歳《とし》で?」 「案外、奥の部屋に閉じ込めて、鍵でもかけてたりして」  するとフェルゼンが立ち上がり、叫んだ。 「ママン、ママン、外へ出して!」  あはははは、と笑い声がはじけた。  忘れ物をとりに戻った白川は、笑い声を耳にして楽屋に入るのをやめた。忘れたのは車のキーだが、戻ってみなをしらけさせるのも面倒だ。今日はタクシーで帰ろう。  暗い国道に出ると、すっと片手を挙げた。人差し指が暗闇を差している。ポリニャックが抜けないのだ。  人差し指にライトが当たり、タクシーは停まった。      ○  朝八時。  大福亜子《だいふくあこ》は斜めに半切りされたトーストにマーマレードをのせた。スプーン一杯だ。  百瀬太郎《ももせたろう》はそれを確認すると、珈琲《コーヒー》をひと口飲んだ。まだこちらはトーストに手を触れていない。  二人の前にあるそれぞれの皿には、目玉焼きがのっている。黄身は白いベールをうっすらとまとい、うす桃色で火が通っておらず、柔らかそうである。一方、白身はまんべんなく火が通り、やわらかさを残しつつも透き通った部分は皆無。百瀬の緻密《ちみつ》なる観察の結果、焼き加減はパーフェクト。理想的な目玉焼きである。  白身に重なるようにして横たわるふたつの三角形は、ハムカツである。理想どころか、予想をくつがえす存在で、腑《ふ》に落ちない。これをもってしてハムエッグと称してよいのだろうか。テーブルサイドにあるメニューを再読してみる。  モーニングセットA ハムエッグ&トースト&サラダ。珈琲orミルクティー  モーニングセットB スクランブルエッグ&トースト&サラダ。珈琲orレモンティー  モーニングセットC ゆでたまご&トースト&サラダ。珈琲orミルクティー  そもそもこのメニューが腑に落ちない。ゆでたまごとレモンティーの組み合わせはNGなのだろうか? 「ゆでたまごとレモンティーの組み合わせも大丈夫ですよ」と亜子は言った。  百瀬は驚き、頭に手をやった。くせ毛が指にからみつく。なぜ思考が見抜かれた? 「同僚と以前ここでモーニングを食べたんです。そのとき春美《はるみ》ちゃん、同僚の名前は寿《ことぶき》春美さんというのですが、彼女がお店の人に聞いたんです。ゆでたまごとレモンティーは可能ですかと。すると店員さんが大丈夫と答えてくれました」  百瀬は寿春美という名前をインプットした。たぶん、彼女だ。亜子が勤めるナイス結婚相談所の六番室の女性で、かなりの美声だ。一度だけ姿を見た。声からイメージしたのは、竹久夢二描くところの柳腰の美女だったが、実際はゆでたまごに似ていた。 「寿さんはゆでたまごとレモンティーを召し上がったのですか?」 「いいえ、ただ、このメニューの書き方が腑に落ちないと言って、聞かずにはいられなかったらしいです。彼女、頭が良いのです。みんなが何の疑問ももたずにすーっと受け入れてしまうことに目をとめて疑問に思ったり、自分なりの解釈をもってくるんです。そういうところは百瀬さんと似ています」  亜子はそこまで話すと「似て非なるもの」という言葉が浮かんだが、どこがどう違うのかを説明しようとすると、「世渡《よわた》り上手」と「浮世離《うきよばな》れ」に言及せねばならず、百瀬を傷つけそうなので、やめておく。  百瀬は亜子に尋ねた。 「ときどき朝ご飯をふたりで召し上がるのですか?」 「会社の帰りに寿さんの家に泊めてもらったことがあるんです。その時に」 「仲がいいですね」  百瀬はうらやましく思った。  自分は秘書である野呂《のろ》の家にも事務員である七重《ななえ》の家にも行ったことはないし、うちに呼んだこともない。朝ご飯を共に食べたことなどない。  百瀬法律事務所は人間関係が良好だと思っていたが、それほど仲がいいとは言えないのかもしれない。そういえば、慰安《いあん》旅行はおろか、忘年会もやったことがない。ひょっとしたら、野呂と七重ふたりで打ち上げなどしているのかしら。ならば自分も入れてもらいたい。そうだ、今度こちらから提案してみよう。  亜子は笑顔で言った。 「女子会です。女は好きなんです。そういうの。会社ではできない話ができるし、楽しいですよ」 「どのような話をなさるんですか?」  すると亜子は黙って珈琲を飲んだ。返事はない。  ひょっとして聞いてはいけない質問だったのだろうか。女子会の中身を知るうとするなんて、日本|男児《だんじ》として少々ぶしつけだった。  百瀬は反省し、目玉焼きに胡椒《こしょう》をかけた。すると答えが返って来た。 「おいしい料理のレシピを交換したりします」  なるほどレシピ交換か。いかにも女性らしいと百瀬は微笑む。大福亜子はどんな料理が得意なのだろう? あれこれ想像してみる。心がはずむ。  実際は「百瀬と亜子の結婚プロジェクト会議」だったのだが、真実は一生百瀬の耳には入らないだろう。また、亜子は料理が苦手で、目玉焼きさえまともに作れないことも、幸か不幸かとうぶん知ることはないだろう。  婚約してから一向に進展しない亜子と百瀬を心配して、春美はプロジェクトをたちあげ、次々と亜子にミッションを与える。前回のミッション「親と会わせる」は、遂行《すいこう》したものの、亜子の父の逆鱗《げきりん》にふれてしまい、結婚への道のりを遠くした。  現在大福家で百瀬という単語は禁句となっている。  母が食後に「桃が冷えてますよ」と言った時、「モモ」と発せられた時点で父が不機嫌になったため、最近母は桃を「ピーチ」と言うようになった。  さて、今回の春美のミッションは次の通りだ。 「そろそろふたりで朝食を食べる仲になること」  亜子はさっそく百瀬に電話した。 「次の待ち合わせはいつもの喫茶店に朝八時でどうですか」  すると百瀬は快諾《かいだく》した。 「仕事の前だと確実に伺えます。朝お会いするのも新鮮ですね」  そしてこのシチュエーションが成立したのだ。  ふたりとも今日のデートはいつもより楽しいと感じている。  百瀬は特に気が楽だ。一時間だと失敗を犯す可能性がきわめて低い。つまり相手を不快にさせる場合の数が限られる。亜子は亜子で、ミッションをやり遂げた達成感が誇らしく、食べ終わって出社したらすぐに春美に報告しようと、張り切ってトーストをかじる。  カウンターの奥でウェイターはちらちらとふたりを見ている。オフィス街の喫茶店の朝は忙しい。ひと組の客を気にしている場合ではないが、気になる。  普通、モーニングを注文する男女は一緒に入って来る。ところが、くせ毛の中年男が先に入店し、メニューを見ながら時々天井を見ており、少し遅れて清楚でかわいらしい女性が入店すると、「おひさしぶりです」「お元気ですか」などと形式張った挨拶をした。  このふたりは時たま土曜の昼下がりにやってきて、ショートケーキと珈琲で二時間くらい話し込む。ふたりが出て行ったあと、毎回目で追うが、店の前でなんどもぺこぺこしあって、それぞれの方向へ去っていく。  ルックスから想像するに、清純《せいじゅん》路線の援助交際と見えなくもないが、ときどき女性が支払うので、お金がからんでいるとは思えない。盗み聞きした範囲では、つきあいはじめたばかりのカップルなのだが、およそ一年、つきあいはじめたばかりのままである。ウェイター経験上、類《るい》を見ないカップルだ。  ふたりの間でぴたっと時が止まっているようだ。それでいてふたりはいかにも幸せそうなのである。はっきり言って、うらやましい。  ウェイターの思惑《おもわく》など知らず、ふたりは朝の一時間を楽しんでいる。 「寿さん、実は担当会員さんからの投資話があるんですよ」と亜子は言う。  百瀬は驚いた。 「結婚相談所に登録している人間が、担当者に投資話をもちかけるのですか?」 「その人は結婚相手ではなくて、みどころのある人間を探しにきていたらしくって、寿さんに白羽《しらは》の矢《や》が立ったわけです。二千万投資するから、事業を起こせとおっしゃって」  百瀬は不快感を持った。人材選びに結婚相談所を利用するなんて。まじめに結婚を考え、お相手を探している女性に失礼だし、第一、ハローワークで仕事を探している人間はいっぱいいる。仕事がしたい人に仕事をしてもらうのが人道的行為だと百瀬は思う。 「どのような会員さんですか? あやしいところはないですか?」  亜子はしまったという顔をして「守秘義務があるので話せません」と言った。  百瀬は心配になる。 「それで寿さんはナイス結婚相談所をやめるんですか?」 「いいえ。投資の申し出を辞退したようです。もったいないと思います。うちはお給料があんまりですし、わたしと違って寿さんは自活しているので、苦しいみたいです。少しでもチャンスがあるほうに進めばいいのに。彼女は努力家で、いつもアンテナはって社会情勢を見てますし、企画力とか分析力とか優れているんです」  話を聞きながらも、百瀬は器用に目玉焼きを口に運び、皿に黄身を一滴も落とさず、丁寧に咀嚼《そしゃく》する。食べ終わると、亜子の目を見て言った。 「寿さんは大福さんと同じ職場にいたいんじゃないですか?」 「え?」 「もしわたしに似ているところがある方でしたら、おそらくそうでしょう。大福さんといると心地よいので、離れたくないのでしょう」  亜子の足元でカシャンと金属音がした。  ウェイターは振り返って亜子の足元を見た。フォークが床に落ちている。新しいフォークを持って席へ近づき、亜子に差し出したが、亜子はぼんやりとしており、見えていないようで、代わりに百瀬が受け取った。  ウェイターは屈んで落ちたフォークを拾いながら、百瀬の靴をにらんだ。このくせ毛の丸めがねが、何か失言をして、彼女を傷つけたのだろう。服はださいが、靴は高級そうだ。手入れも行き届いている。靴への神経を少しは女性の心にまわせないのだろうか。つくづくバランスの悪い、妙な男だと思う。  その後も女性はぼんやりと自分の皿を見つめており、食がすすまないらしく、ウェイター自慢の目玉焼きに手が付けられないようだった。      ○  柳《やなぎ》まことはその大きな瞳でガラスケースを見つめている。ガラスにひびが入りそうな眼力《めぢから》だ。その瞳に臆することなく舌をちろちろ覗かせているのは、黄色いヘビである。  体長は二メートルあるが、まだ子どもだ。このまま成長すれば、いずれ七メートルを越すだろう。毒はないが、肉食である。大きくなれば犬猫もひとのみできる。  このヘビがなぜまこと動物病院三階の入院施設にいるかというと、次の事情による。  ことは半年前、やぶからぼうな電話で始まった。 「適切な飼育環境って何?」  まことは「何とは何だ」と言いたいところをぐっとこらえた。相手は名乗ることもせず、つけつけと用件をのべる。 「めずらしいヘビをペットショップで見つけたんだけど、飼うにはいろいろ、めんどうなことがあるらしい。適切とか環境とか言われたって、よくわからないんで、それらを全部おたくにお願いしたい」  どこそこのなにがしショップ、明日までによろしくと一方的に指示した挙げ句、切る直前に聞きたいのなら教えてあげよう的な尊大さで「小松《こまつ》だ」と名乗った。  まことは静かに受話器を置くと、「なにさま野郎この野郎」とつぶやいた。「ちちんぷいぷい」や「いたいのいたいの飛んで行け」同様のおまじないで、日々のストレスをささやかながら軽減してくれる。  この手の客は無視するとやっかいなクレーマーになる。しかたないので翌日、男から指定された六本木のペットショップへ行ってみた。  高層ビルの四十八階。会員制で看板も出ておらず、入り口に電話があって、そこで受付をする。小松は常連《じょうれん》らしく、名前を出すとすぐに入れた。  広くて清潔なショップだ。空調も最新式で、動物臭はない。  そこでまことを待っていたのは、ビルマニシキヘビだ。危険動物と認定されている種である。その個体はかなり変わった風貌《ふうぼう》で、全体に黄色く、うっすらと白いまだら模様が入っている。アルビノだ。動物だけでなく植物にも見られる遺伝子|疾患《しっかん》で、メラニンが生成されず、色素が欠乏する。日光に弱く、自然界では短命だ。  このような突然変異はマニアの間で珍重《ちんちょう》される。それだけに高額だ。なにさま野郎は金持ちらしい。  店員は説明する。 「ビルマニシキヘビは動物愛護《どうぶつあいご》管理法で特定動物に指定されています。飼うには届け出が必要で、適切な飼育設備があると確認された場合にのみ、自治体から飼育許可がおります」  そんなこと、獣医のまことはとっくに知っている。 「小松さんは?」 「料金はいただいているのですが、あとは獣医さんにお任せするとおっしゃって」 「なるほどそういう奴ね」  まことは口元をゆがめた。店員は「おっしゃるとおりです」と言わんばかりに力強くうなずく。上客だが嫌われているらしい。  この手の依頼はそう珍しくない。熱帯魚《ねったいぎょ》マニアにもいるが、「飼うが世話は人まかせ」という人間は少なくない。インテリアの一部とでも考えているのだろう。好きにはなれない人種だが、金払いがいいので、病院経営的にはありがたく、まことは「必要悪」と考えている。  その後小松と連絡をとり、自宅に出向いた。都内では珍しく歴史のありそうな瓦屋根の一軒家で、贅沢《ぜいたく》にもひとり暮らしらしい。  まことを見た瞬間、小松の態度は豹変した。目尻が下がり、饒舌になり、やけになれなれしく話しかけてくる。  まことは上背《うわぜい》のあるモデル体型に白衣をひっかけ、鼻の頭は日焼けで皮がむけている。しかし鼻筋は通り、まばたきするたびに音がしそうな大きな瞳、唇《くちびる》は薄くきりっとしており、周囲を圧するほどの美人だ。  まことはおぎゃあと生まれて三十八年、ずっと美形として生きてきて、ちやほやされることに慣れている。というか、うんざりしている。小松の軽口をいなしつつ、環境を整え、自治体等々の手続きを肩代わりし、月に一度の往診で飼育のアドバイスをする契約をした。  往診のたびに食事に誘われるし、断るたびにねちねちと負け惜しみを聞かされ、最も苦手なタイプの男だが、だからこそビルマニシキヘビが心配で、ほうっておけず、きちんと通った。アルビノは繊細《せんさい》だ。慎重に扱う必要がある。  飼い主である小松の神経と言ったら、あるのかないのか、おそらく中枢神経は空洞《くうどう》で、ゴムホースのごとき形状だろう。  三十二歳の若さで専務という肩書きを持つ。会社は調味料を製造販売する老舗《しにせ》で、大企業とは言えないが、シェアは高い。あほ息子を専務にしても、経営危機とは無縁なのだろう。  小松は爬虫類《はちゅうるい》好きで、すでにトカゲや亀を飼っていたが、趣味がエスカレートして今回初めて危険動物に手を出した。まことは「爬虫類好きの男は少年性が強い」という個人的統計データを持っており、小松を「ただの子ども」と見ている。小松は女好きのくせにキャバクラヘは通わず、あくまでも「本気のおつきあい」を夢見ているらしい。少年とはそういうものだ。  まあとにかく、ビルマニシキヘビは無事小松家におさまった。飼い主を除けば、これ以上ないほど快適な環境と言えよう。  ところがこのゴムホース、半年足らずでヘビを手放したいと言い出した。 「引越が決まったんですけど、ヘビはだめって言うんですよ」  小松はうすら笑いを浮かべて言う。 「こんどはマンションなんで。集合住宅だと許可がおりにくいんですねえ」 「マンションでも飼えます。適切な飼育環境を整え、自治体に申請しましょう」 「でもそのマンションの規約ではだめなんです。管理会社はそう言ってます」 「ヘビがいるのに、なぜそのようなマンションを選んだのですか」 「わたしが選んだわけではありません。婚約者が選んだのです」  まことはため息をついた。また[#「また」に傍点]だ。  ペットを手放すタイミングは、統計的に「結婚を機に」が多数をしめる。それも圧倒的に男性だ。女性はペットを手放さずに結婚する。この違いはやはり母性によるものだろう。 「ご婚約おめでとうございます。彼女があなたを愛しているのでしたら、ヘビの一匹や二匹、受け入れてくれるんじゃありませんか」  すると小松はにやりと笑った。 「まこと先生、やきもちですか?」  このひとことで、まことの中の何か[#「何か」に傍点]が切れた。  ここまで阿呆《あほう》だと会話するだけ無駄《むだ》である。かつ、ここまで阿呆だと、ビルマニシキヘビを野へ放つ可能性がある。あげくヘビが人を噛み、警察が小松に詰め寄っても「婚約者への愛のために」とか言うのだろう。 「要らないなら、引き取ります」と、口がすべってしまった。  小松はおおげさに両手を広げ、「プレゼントします。あなたの美しさに敬意を表して」と近づいてきたが、ハグは丁重に辞退した。  以上の経緯を経て、現在まこと動物病院に黄色いヘビがいるというわけだ。  治療以外の理由でペットを引き取るのは、創業以来初めてのことである。ペットが失明したり、内臓|疾患《しっかん》で歩行困難になっても、飼い主が最期まで責任を持つようアドバイスする。病院では引き取らない。それがまことのルールだ。動物を守るには、まず自分がしっかり立っていなければならない。精神的にも経済的にもだ。  なのにビルマニシキヘビはここにいる。これから引取先を探さねばならない。自分としたことが、いったいどうして連れ帰ってしまったのだろう?  百瀬太郎病がうつったのだろうか。  百瀬は『猫弁《ねこべん》』と呼ばれている。かつて世間をにぎわした世田谷猫屋敷《せたがやねこやしき》事件をみごと解決したことにより、ペット訴訟のスペシャリストという烙印《らくいん》を押されてしまった。  百瀬は訴訟の果てに見放された猫たちをなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく「うちで引き取ります」と言う。現在十二匹を法律事務所にかかえており、アパートに一匹(こちらは個人的[#「個人的」に傍点]に拾ったらしい)飼っている。  世田谷猫屋敷事件を依頼したのは、何をかくそう、まことであり、百瀬太郎を猫弁にする基礎工事に関わってしまった。まさかあそこまでのおひとよしが法曹界《ほうそうかい》に存在すると思ってないから、甘えるだけ甘えてしまった。着手金《ちゃくしゅきん》だって雀《すずめ》の涙《なみだ》だったし、報酬金など、ないに等しい。  当時百瀬はウエルカムオフィスという日本最大手の事務所におり、超一級エリート弁護士の道が約束されていたわけだが、あれがきっかけで独立するはめになった。  事実上の解雇だ。  ところが百瀬という男は、ちっともこたえてないようで、あいかわらず来るものは引き受ける。それでいて、たいして困っているようにも見えない。あとのことを考えているのかいないのか、はためにはわからない。「貯金はないが借金もない」そうで、なんとか経営破綻せずにやっているらしい。  まことは最近あることに気付いた。  保身って、意味がないのではないか。百瀬のように常に無心でいれば、保身に割く時間も要らず、失うものは潔《いさぎよ》く失い、代わりになにか得るものがあるのかもしれない。  ビー、ビー、ビー。  突然、騒音《そうおん》のように呼び鈴が鳴った。  本日の外来受付時間はとっくに終了したのだが。  モニターを見ると、黒い固まりが映っている。と思ったら急にモニターが明るくなり、ごつい体の男が見える。両手を組むようにして、呼び鈴を……頭で……頭で押している?  黒い固まりは男の頭だ!  両手がふさがっており、なにかを抱えているようだ。  まことは三階から一階に駆け下りた。ドアを開けると、大男が叫んだ。 「ひいちまった!」  男が抱えているのは、犬だ。いや違う、猫だ。怪我《けが》の様子はわからないが、見たところ出血はなく、息もしている。  一階の診療室に案内し、猫を診察台に乗せる。灰色でかなり大きい。立つ力はなく、横たわっている。足先だけタビをはいたように白く、毛はあちこちダマになっており、長い毛と短い毛がいりまじり、一部剃ったように禿《は》げているし、雑種にしても異様なデザインだ。痩《や》せており、猫特有のまるっこさはない。意識はあるが、動かない。  触診しながら男に状況説明をさせる。 「トラックを運転してた」 「前方になにか見えてブレーキを踏んだが間に合わなかった」 「降りてみたら、こいつが倒れていた」 「電信柱《でんしんばしら》におたくの病院の名前があった」  男はたいへんショックを受けているらしく、安定剤を処方したいくらいだ。図体が大きいから、牛用がちょうどいい。 「それで、うちの駐車場に入れた?」と聞くと、牛男は不思議そうに「駐車場?」とつぶやいた。 「いったいどこを走っていたの?」 「そこの国道」 「環八《かんぱち》ね。トラックは?」  男はハッとして、黙った。 「トラックはどうしたの?」 「置いてきてしまいました!」 「どこに?」 「国道です」と言いながら、男はそわそわと体を揺らす。  まことはあきれた。 「何十ントラック?」 「十トン」  まことの頭にはっきりと浮かんだ。巨大なトラックが国道の流れを遮《さえぎ》っている図だ。 「行きなさい。あなたがここにいて、この子の命が助かるなら、いろと言うわよ。でも関係ないの、全然」  男は青い顔をしてあわてて出て行った。図体のわりには繊細な神経の持ち主のようで、ドアは静かに閉まった。  検査の結果、前足首の脱臼を発見した。ひいたというのは男の錯覚《さっかく》で、迫るトラックに驚き、妙な転びかたをしたのだろう。ぐったりしているのは、栄養が足りないからだ。局所|麻酔《ますい》を打ち、整復した。ダマになった毛をカットし、足の毛を一部剃って、点滴《てんてき》で栄養を送りこむ。  手術はしなくて済んだ。内出血で足は腫れているが、ケージの中で静かに暮らせばもとにもどる。汚れがひどい。元気になったらシャンプーしてあげよう。  問題は灰色猫の行く末である。  三階の入院病棟に、あらたな居住者が増えた。  アルビノのビルマニシキヘビよりも、雑種《ざっしゅ》の猫のほうが、引き取り手が見つかりにくい。子猫ではないから、なおさらだ。  男の名前も電話番号も聞いてない。おそらく男はもどってこない。それでいい。さよならという気持ちで、「行け」と言ったのだ。  野良猫の命にあれほどショックを受けていた大男。そのあわてぶりに、まことは心が救われた。小松の一件で人間に嫌気《いやけ》がさし、仕事に不安を持ち始めていたところへ、あたたかい灯りを灯してくれた。  これでもう、よしとしよう。  引き取らないというルールを立て続けにやぶってしまったが、後悔などすまい。  寝ている灰色猫に「サンキュー」とつぶやいた。      ○  新宿、午後三時。  仁科《にしな》七重は右手にトイレットペーパー十二ロール二パック、左手に猫トイレ用砂袋をぶら下げ、早足で事務所を目指す。死んでも腰を曲げるものかと歯をくいしばり、背筋を伸ばして歩く。ワイドショーで「腰を五度曲げると五歳老けて見える」と美容コンサルなんとか氏が言っていたからだ。  近所のホームセンターで「お一人様二点限定」のトイレットペーパーを購入、こちらは経費《けいひ》で落とす。猫トイレ用の砂はボスのポケットマネーから出るので、レシートは別だ。  猫にかかる費用は経費にしましょうと、秘書の野呂が言うが、ボスの百瀬は「法律事務所の経費には相当しません」と首を横に振る。 「猫についてはすべて、わたしの不徳の致すところです」と言うのだが、七重は「まったくだ」と思う。ボスは懐をどんどん痛めて、猫を引き取る行為に反省心を持って欲しい。  ようやく事務所が見えて来た。七重はいったん荷物をおろし、息を整える。事務所まであと五十メートルほどである。  ん? ドアの前に誰かがいる。  七重みずから塗り上げた自慢の黄色いドアの前に、野球帽を被った少年がいて、なにやら貼り付けようとしている。五十メートル先の光景だが、七重の目にははっきりと見える。最近、近くはぼやけるが、遠くははっきりくっきり、地の果てまでも見逃さない。  あんた! と出かかった声を賢明にも胸にしまった。  逃がすものか。正義と自由の象徴であるひまわり色のドアに向かって、五十女は全力疾走し、背後から少年の右手をつかむと、言った。 「あんた……」  息切れして、あとが続かない。ドアに片手をつき、腰は三十度曲げ、つまり三十歳老けた格好で息を整えると、ドアを開けて少年を事務所に引きずり込んだ。  ドアを閉めると、七重は威厳たっぷりに言った。 「あなたがらくがき犯ね?」  パソコンで売り上げを計算中だった秘書の野呂|法男《のりお》が顔を上げ、叫んだ。 「その子はなんです?」  七重は胸をはって言った。 「とうとう見つけました。らくがき犯ですよ」  そしておもむろに手を離した。逃がさないように、ドアを背に仁王立ちしている。  小学四年生くらいだろうか。少年は手に半紙を持ったまま、悪びれた様子もなく、事務所を珍しそうに見回す。  本棚にはぶあつい法律関係の書籍やバインダーが並び、デスクはみっつ。そのうちひとつは木製で、綺麗に整頓《せいとん》され、主はいない。しかしそんなことはどうでもいい、少年の心をうばったのは猫だ。  本棚の上に茶トラ、デスクの上に牛柄猫、床で寝そべっているのは三毛猫《みけねこ》。白髪まじりのおっさん(野呂)の足元には黒猫がいて、少年を見ている。好奇心いっぱいのシャム猫は、少年に近づき、足の匂いを嗅《か》いでいる。 「やっぱすげえ」  少年は声変わり前の微妙な声でつぶやいた。 「名前は?」  七重が低い声で問うと、少年は七重を見て「ぷっ」と吹き出し、「はははは」と笑った。  そばで見ていた野呂は思った。これはまずいと。低い声を出す七重は噴火《ふんか》の寸前であり、笑うのはくすぶった火に酸素を送るようなものだ。 「反省しなさい!」  案の定、七重は叫び、少年の腕をつかんだ。引きずるようにして応接室に少年を放り込むと、ドアをガツンと閉めた。息子三人を生み、そのうち二人を育て上げただけあって、男の子の扱いに遠慮はない。 「反省したら合図しなさい! ごめんなさいを聞いてあげるから!」  ドア越しに叫ぶと、せいせいした顔で野呂を見た。  すると野呂は立ち上がり、七重以上の大声で叫んだ。 「先生が接客中ですよ!」  十分後、七重はしょんぼりとソファに座っていた。手には『はりがみ厳禁』と書かれた半紙を持っている。  さっきは驚いた。ボスも依頼人もかなり驚いたようだが、自分はもっと驚いた。ひたすら頭を下げ、応接室から少年をひっぱり出した。  すると少年は七重にこの半紙を差し出したのだ。 「はがれかかっていたから、貼り直していたんです」  少年は礼儀正しく言った。それはたしかに七重がドアに貼ったものである。  結局七重が「ごめんなさい」とあやまるはめになった。 「気にしないで、おばさん。間違いは誰にでもありますから」  少年は尊大に言い捨てて、出て行った。  珍しく野呂がお茶をいれてくれた。七重はそれを受け取って、湯呑みを覗いた。 「まあ、いい色じゃありませんか。香りもまあまあ、男がいれたにしちゃあ上出来ですよ。味はそうですね、百瀬先生がいれた方がおいしいですね」  野呂は何か言おうとしたが、七重がさえぎった。 「頼むから説教しないでくださいよ。こんな失敗をして反省しないような馬鹿ではありません。親切な子どもに乱暴を働いた上、お客様にもご迷惑をかけました」  七重は心配そうに応接室のドアを見た。まだ面談中である。 「先生がこれで仕事をひとつ失わなきゃいいですけどね」  七重が肩を落とすと、野呂ははげますようにささやく。 「失ってもかまわない仕事ですよ。この案件は時間がかかるばっかりで、いいとこなしです。わたしは今、こいつを放り込みたい心境ですよ」  野呂は足元にまとわりついている黒猫ボコを見て言った。  ボコは二年前まで会津《あいづ》の温泉旅館で飼われており、「ぼんこ」という名だった。東北の方言で「ちびっこ」という意味だ。  あるとき宿泊客が入浴中に心臓麻痺で死亡、家族が旅館を訴えた。 「応急処置が遅れたせいで死に到った」から始まり、「夕食のメニューが心臓に負担をかけた」と裁判は泥沼化、しまいには「サービス業なのに不吉な黒猫を飼っている」と、責任はぼんこにまで波及した。  猫と言えば猫弁。これはもはや日本の法曹界《ほうそうかい》の常識である。旅館側の弁護士が百瀬に助けを求め、百瀬の弁護で、ぼんこにも旅館にも落ち度がないと立証された。慰謝料請求は棄却《ききゃく》されたが、旅館の女将は遺族の気持ちを考慮し、黒猫を手放す決心をした。 「長年ごひいきにしてくださったお客さまなんです。亡くなったこの場所がなんの欠落もなく存続しているのは、冷淡すぎるのではないでしょうか」と言うのだ。  そして百瀬が引き取った。七重が「ぼんこ」を「ボコ」と間違って発音するので、百瀬も引きずられて、「ボコ」と呼んでいる。  野呂は「黒猫」とか、せいぜい「こいつ」と呼び、抱きもしない。しかしなぜかボコは野呂の近くを離れない。野呂デスク守衛という任務を懸命に遂行し、なんどか里親のもとに送り出したが、脱走して戻って来る。とうとう里親探しリストからはずされ、百瀬法律事務所で終身雇用が約束された。  七重はお茶を飲んで落ち着いたのだろう、いつもの調子を取り戻した。 「野呂さん、あの子、さっきの坊主ですが、わたしはなんか、ひっかかるんですよ。あやまるのはあっちじゃないかという気がしてならないんです」 「女の勘ですか?」 「だって人の顔見て笑ったでしょう? 失礼ですよ」  野呂は七重の右の耳を指差した。  七重ははっとして、右耳をさわった。輪ゴムがひとつ、はまっている。 「七重さん、その癖やめたほうがいいですよ」 「便利なんですよ。手首だと痛くて」  野呂は男の懐の深さを見せつけるかのようにやんわりと言う。 「まあ、いいでしょう。あなたに言いたいことは山ほどありますが、今日は言わずにおきますよ。一週間したら言うかもしれませんが、その時は素直に聞いてください。それより七重さん、買い出しに行ったはずでは? お一人様二点の限定品、買えなかったんですか?」 「あっ!」  七重は湯呑みを置き、立ち上がった。五十メートル先の道路に置きっぱなしである。まだあるだろうか? あわててドアを開けると、すぐ脇にそれはあった。  七重は周囲を見回した。誰もいない。荷物を抱えて事務所に入ると、七重は言った。 「今度こそ、反省しました。あの子は親切な良い子に違いないですよ。いいですか、野呂さん、一週間後にお小言を言う必要はないですから。わかりましたね?」      ○  応接室から七重と少年が出て行ったあと、百瀬は依頼人の顔を見つめた。  まだ動揺が隠せないようで、小さな目をひっきりなしに閉じたり開けたりしている。  お月さまのように丸い顔、目も鼻も口もぱらぱらと無難《ぶなん》に配置され、どれひとつ存在感はなく、髪はうしろでひとつにまとめてある。黒いスーツ、黒いバッグ、黒いパンプス。パンプスの太いヒールの底は斜めにすり減っている。  百瀬は相手の中になにか特徴を見いだそうとして、テーブルの上の名刺を見た。  味見克子。  アジミカツコ?  ほっとした。かろうじて名前に個性がある。 「さきほどはたいへんご無礼致しました。お茶のおかわりいかがですか?」 「いいえ」  味見克子はこれまた特徴のない声で応える。が、いくぶん心がほどけたのか、今の事件に興味を持ったようだ。 「あの子、事務の女性のお子さんですか?」  百瀬は顔を横に振り、手に握っているくしゃくしやの紙をテーブルに広げてみせた。   猫弁【意味】猫の弁当にあらず  半紙に筆文字で書かれてあり、達筆である。 「辞書っぽい」と言って、味見はふふふと笑った。百瀬は説明する。 「この部屋に入ってきた途端、少年はわたしにこの紙を渡しました。ぎゅっと丸めてね。おそらく彼は表のドアにこれを貼ろうとして現行犯でつかまった。そこでとっさに証拠|隠滅《いんめつ》をはかったのでしょう」  すると味見は「頭の良い子ですね」と言って、感心したように文字を見つめた。 「ええ。賢い子です。怒らない大人を瞬時に見定め、そして正解だった」  そう言って百瀬はにっこり笑い、味見もつられて微笑んだ。  やっと話ができると百瀬は思った。 「では、初めから依頼内容を説明しますね」 「はい、お願いします」  百瀬はどこから話そうか考えた。  この案件は依頼があってから、すでに二週間経っている。その間に依頼人が次々交代した。味見克子で三人目である。しかも彼女はオフィス・タナカの上司から今日ここに来るように言われただけで、依頼の内容すら知らないというのだ。 「味見さんはオフィス・タナカに入られてどれくらいですか?」 「まだ正式に採用は決まっていません。今大学四年生で」 「ではインターンシップですか?」 「はい」  百瀬はためいきをついた。事情のわからぬ学生をよこすなんて。  気の毒なのは味見克子だ。不安でいっぱいの表情をしている。  インターンシップ制度。学生が一定期間、企業で研修生として体験労働できるシステムだ。学生は企業の中を覗くことができ、職業選択の参考になる。その一方で、一部の企業が悪用して学生をただ働きさせるなどの問題も起きている。  雇用問題はさておき、今はこの案件を進めよう。  依頼人に依頼内容を説明するなんて、初めてだ。 「オフィス・タナカに所属する女優・白川ルウルウさんをご存知ですよね」 「お顔は知りませんが、お名前は会社案内に載ってました」 「舞台がご専門の女優さんで、ブロードウェイで活躍されたこともある実力派です。彼女は自宅にメインクーンを飼っています」 「メイくん?」 「メインクーン。大型の猫で、長毛種です。猫の名前はルウルウ・ベベ。去年アメリカのキャットショーで第二位となりました。今年は一位を狙っていたそうですが、妊娠《にんしん》が発覚し、参加不可能になってしまったんです」 「わたしパスポートを持っていません」 「え?」 「女優さんがおめでたで、飛行機に乗れなくなったんでしょう?」 「妊娠したのは猫のほうです」  味見克子は驚いたようにまばたきをした。 「ルウルウ・ベベは完全室内飼いです。妊娠するはずはありません。これは密室猫妊娠事件です」 「密室猫妊娠事件?」 「はい。なぜルウルウ・ベベが妊娠したのか、お相手は誰か、白川さんは真相を解明し、原因を作った相手に損害賠償を請求したいと言ってます」 「依頼人は……白川さん?」 「実質そうです。女優さんなので名前は伏せ、マネージャーさんが依頼人としてうちに相談を持ち込みました。でも彼女のマネージャーさんはなぜか長続きしなくて」 「今はわたしが依頼人?」 「あなたは白川さんの代理というか、代理人は法的にはわたしなのですが……」 「これって子どものおつかいですね」味見はさびしそうに笑った。  百瀬は不思議に思う。味見の地味なたたずまいと芸能事務所はあまりに結びつかない。 「味見さんはオフィス・タナカに就職したいんですか?」 「就職したいんです。どこでもいいんです。四年なのに内定ゼロで、あせっています」 「オフィス・タナカではどんな条件で働いています?」 「この一ヵ月、週四日、九時から五時まで、オフィスで電話番や掃除《そうじ》などの雑用をやっていました。今日からは白川さんの件を担当することになりました。無給ですが、きちんとできたら、内定をくれると言われて」 「大学では何を専攻していますか?」 「児童文学専攻です。出版関係はすべて書類選考で落ちてしまいました。卒論のタイトルは『ケストナーの抵抗の精神』でいこうと思っています。けど」 「書く時間がない?」  味見克子は「言い訳ですよね」と目を伏せた。自分に厳しいタイプの人間らしい。  百瀬は今後のスケジュールを説明した。 「まずは白川さんと直接会い、現場を見させてもらいます。ルウルウ・ベベとも会いますが、言葉が通じないので、原因究明に時間がかかるかもしれません」  味見克子は律儀にメモをとり始めた。丸くて小さくて整った宇だ。  百瀬はそれを見ながら言った。 「この件はわたしに任せて、あなたは卒論を仕上げてください」  味見克子ははっとして顔を上げた。 「大学は就職予備校ではありません。卒論だけでなく、興味深い講義があれば一回でも多く出席すべきです」 「あの」 「ご心配にはおよびません。オフィス・タナカにはあなたと共に進めていると言っておきます。ときどき連絡とりあって、口裏《くちうら》を合わせましょう」  味見克子はちいさな目を精一杯あけ、百瀬を見つめた。緊張はすっかり消え、子どものような好奇心いっぱいの目で、百瀬の髪やめがね、その奥の瞳を見ている。なつかしいものを見るような安心し切った目だ。  突然、味見克子は天井を見上げた。  静かな時間が流れた。  百瀬は知っている。これは涙をこらえる時に人間がとる行動である。まだ若いのに、ずいぶんと辛い思いをしているようだ。それらはすべて社会を形成する自分らおとなの責任だと感じる。  味見はしばらくすると立ち上がり、ぺこりとお辞儀をして出て行った。      ○ 「ありがとうございます。ではなるべく早くお届けします。よろしくお願いします」  柳まことは電話を切ると、両手でよっしゃ! と、ガッツポーズをし、大型冷蔵庫から缶ビールを出し、プシュッと開けた。腰に手を当て、ごくごくとのどをならす。 「うー」  炭酸のせいか安堵《あんど》からか、目に涙がにじむ。うるうるとした色っぽい瞳でガラスケースのビルマニシキヘビを見る。ヘビは寝ている。のんきなものだ。  たった今、四国南端の動物園に嫁ぎ先が決まった。  設備が整った条件の良いところから順に当たったが、なかなか良い返事をもらえず、七軒目で決まった。園の規模はそう大きくないが、爬虫類専門の獣医がいて、市民に愛されている良心的な動物園だ。  園長は「黄色いヘビに名前をつけようキャンペーンをはって、入園者に喜んでもらいますよ」とはりきっている。きっとそこで人気者になり、天寿《てんじゅ》を全うできる。  よかったよかった。 「どんな名前がつくか、楽しみだな」とつぶやき、ガラスケースをこつこつと指でたたくと、ヘビは目をカッと見開き、「名前なんか、形骸《けいがい》だ」とでも言いたげに、こちらを睨む。  アルビノは視力障害を起こしやすいが、このヘビはしっかりと見えているようだ。  まだここに来て三日だが、このヘビとは意思疎通がはかれたような気がする。小松というやっかいな男に手こずらされたという点で、戦友のような感情が沸き起こったのかもしれない。  残る問題は運搬だ。四国は遠い。移動に時間がかかる。動物にストレスは禁物だ。  できたら自ら運搬したいが、診療を休むタイミングが難しい。夜中に行くとしても、治療中の入院患者や、ようやく立ち上がることができた灰色猫が気がかりだ。さてどうしよう?  灰色猫の足の腫れはひいた。やせてはいるものの、ケージの中で立ったり座ったりできるようになった。汚れがひどいので、昨夜軽くシャンプーしたところ、毛が銀色に輝き出した。あちこちカットしてあるので、本来の毛の長さはわからないが、首周りの毛はふわふわとやわらかく、そのほかはしっとりとつややかだ。  ひょっとしたら純血種かもしれない。しかし心当たりの種だとすると、かなり高価で、野良《のら》であるはずもない。万が一逃げたとしても、飼い主はビラを撒いて必死に探すはずだ。あれから何度も迷子猫を告知するサイトをチェックしたが、該当する猫はいない。無責任なブリーダーがなんらかの事情で遺棄した可能性が濃厚だ。  呼び鈴が鳴った。現在、夜八時。緊急外来か?  モニターを見て驚いた。例の牛男だ。  一階に駆け下りてドアを開けると、男は開口一番、謝った。 「おそくなってごめんなさい」  まことがひとこと言う前に、男が質問した。 「猫、生きてます?」 「元気にしてる」と言うと、男は「よっしゃ!」と両手でガッツポーズをした。  なんとさっきの自分と同じポーズをした。まことは腕組みをしながら、あらためて男を観察する。  年齢は三十歳くらいだろうか。ややくたびれたポロシャツ、すり切れたジーパンに、ややくたびれたスニーカー。身につけているものすべてが、ややくたびれている。一方、肉体は妙に張り切っており、腕の筋肉がもりあがり、生命力にあふれている。  身長は百八十五センチくらいか。理想的なBMI(ボディマス指数)を二十二とすると、体重は七十五キロになるが、腕の筋肉を見れば、体脂肪率はおそらく五パーセントくらいで、筋肉は脂肪より重たいから、体重は七十七キロ以上あるだろう。そこまでは推測できたが、残念ながら顔は暗くてよく見えない。  まことは一階の診療室に通そうか、三階の入院施設に通そうか、迷った。三階は友人やスタッフ以外上げたことはない。ドア一枚へだててプライベートスペースがあるからだ。 「北海道になまものを納品だったもんで」  男は話すのが苦手のようで、いちいち頭をかいたり、腕をかいたりしながら話す。  あれからまだ三日だ。仕事を終えてすぐに来たのだろう。来るとは感心だが、どこまで責任を持つつもりなのか、なぞだ。 「治療代、払おうと思って」  男はジーパンの尻ポケットから財布を出した。手作りっぽい、綿素材の巾着《きんちゃく》型の財布だ。古い衣類の袖かなにかを利用して作ったに違いない。こだわりの品というより、こだわらないからこそのそれ、という感じだ。  男性が女性化しつつある昨今、これだけ身なりにこだわらないのは、まことの周囲では百瀬太郎とこの牛男くらいだ。興味深い。 「猫は三階だ。あがって話をしよう」  まことは言い、先に階段を登っていった。男は「はい」と言い、ドアを閉め、まことのあとを素直についてくる。  三階の入院患者たちは、この侵入者が気に入らないらしい。  去勢手術後のポメラニアンはきゃんきゃん鳴くし、角膜炎《かくまくえん》治療中の九官鳥《きゅうかんちょう》は「ホーホケキョ」と鳴いた。興奮するとうぐいすを真似る癖がある。 「角膜炎のついでにホーホケキョも直せないか」と飼い主は言ったが、「関西弁を覚えたオウムも直らなかった」と前例を話すと、うぐいすならまだましだと思ったようで、納得した。  騒ぎの中、ビルマニシキヘビは寝ている。嫁ぎ先が決まって安堵したのだろう。  例の灰色猫は男を見ると、「みー」と鳴いて立ち上がった。こちらはうれしそうな「みー」だ。男は背負っていた大きなリュックを床に置くと、ケージに顔をくっつけるようにして灰色猫を見て、驚きの声を出した。 「これが、あいつ?」 「あいつよ。治療のために毛をカットしたけど、時間が経てば生えそろう。おそらく綺麗な猫になるわ。骨折も内臓損傷もなく、くじいただけ。あなたのトラックにはぶつかってないのよ」  男は「立ってる」とつぶやき、灰色猫から目を離さない。うれしくて、まことの説明が耳に入らないようだ。灰色猫もうれしそうだ。のどを鳴らしながら男を見つめている。  相思相愛、ラブシーンを見るようだ。  まことは一枚の紙を用意し、テーブルに置いた。 「あなたの猫ではないのはわかってる。でも一応ここは病院だから、カルテが必要なの。この猫を持ち込んだ責任者として、名前と住所、電話番号を記入して、今後のことも決めてください」 「今後って?」 「あと一週間すれば、この猫は退院できます。引き取りますか?」 「引き取る?」  やはり何も考えてないようだ。まことは相手の教養や理解力を値踏《ねぶ》みし、なるべくわかりやすく説明する。 「そりゃあ、動物が野山《のやま》で自由に暮らせる環境は理想よ。でも今の都会は野良を許容する環境ではないの」  男は無言だ。わかっているのだろうか。許容という言葉はかたくるしかったかもしれない。 「たとえば、人間。生みっぱなしで育てなかったら、罪でしょう?」  男は床を見つめ、何度もまばたきをした。動揺したようだ。この男に猫を引き取ることはできないとまことは判断した。 「では里親を捜しましょう。引き取り手がない場合は動物管理センターに送ることになりますのでご了承ください」  男ははっとして顔を上げた。 「なんですかそれ? どういう場所?」 「犬だと一週間は保管され、猫は即日処分されます」 「処分って?」  男は猫を指差して、「死ぬ?」と言った。  まことはうなずいた。 「俺、引き取ります」  男はあわてて椅子に座り、まことが差し出したボールペンを受け取って、紙に向かった。  まことは笑いをこらえた。不謹慎だが、真剣な人間を見ると笑えてくる。まっすぐな人間は、どうしてこうも滑稽なのだろう。  筆頭項目はペットの名前だ。  男はじーっと紙を見つめて考え込んでいたが、やがて「ネコ」と書いた。 「そこは動物の種類ではなく、名前を書くところよ」 「名前です。これなら覚えられる」  覚えられる? この男、そこまで頭が弱いのか? 「なにかまずいですか?」 「いいえ、では次にあなたの名前を書いてください」  まさかニンゲンとか書くなよ、と思いつつ覗いていると、「土田帆巣」と書いた。五歳児のようなつたない字だ。 「それ、なんと読むんですか?」 「つちだはんす」  しゃべり方は独特のイントネーションがあり、地方出身らしい。知性の匂いは皆無。しかしがさつではなく、挙動には品がある。  まことは蛍光灯の光の中、男の顔をじっくりと観察する。鼻筋は通って眉は濃く、目は二重ですばらしく大きい。動物は毛や歯を見れば、年齢や健康状態、性質がおおよそわかる。男の髪は兵隊のような角刈りで、毛は太くて固そうだ。歯は白い。煙草《たばこ》や珈琲はやらないようで、清潔感はある。ギリシャ彫刻《ちょうこく》のような顔立ちだ。似たような俳優がいた。そう、金城武《かねしろたけし》だ。  これだけよくできた顔をナマで見るのは初めてだ。興味深い。 「はんす。素敵な名前ね」 「ガキの時、ハンスのばかってからかわれた」  やっぱり。おばかさんだったんだ。  土田は大きな目で住所と電話番号の欄をしばらくにらんでいたが、やがてぽつりと言った。 「住所、ないんで」 「まさか、あなたホームレス?」  まことはあらためて土田を見た。くたびれた服だが、ホームレスにしては身ぎれいだ。 「運送会社の社宅にいたんですけど」 「そこの住所でいいんですよ」 「さっきクビになったんで」 「クビ?」 「しばらくカプセルホテルで過ごします」 「携帯番号は?」 「運送会社から支給された携帯なんで、没収されました」 「あなたいったい何をしたの? まさか事故でも?」 「したんじゃないです。しなかったんです」  まことはいらいらした。なんて要領をえない話し方をするのだろう。百瀬と話しているとくどくていらいらするが、こっちの男は話が足らなすぎる。 「わかるように説明して」 「北海道から戻って、次は九州の予定で」 「それで?」 「どうしてもここへ寄りたかったんで、仕事を断ったんです」 「…………」 「当日キャンセルはやっちゃいけないことで……仲間に迷惑をかけたし……社長はカンカンで」 「解雇通告されたわけ?」  土田は首をひねった。 「なんかいろいろ言われたんですけど、途中から覚えてないんです。俺、あんまり記憶力良くないんで……長く話してると、最初のほう、忘れてしまうんです」 「そうなの」 「社長は最後、やめちまえと言ってました。それはほんとです」 「…………」 「でも俺、長距離トラック乗って十四年、無事故無違反だし、ナビなんかいらねえってほど日本地図は頭に入ってるし」 「いくら地図を覚えたって、道路はどんどん変わるでしょう?」 「方角がわかるんです。住所を聞けば、そこへ行けます。業界ではけっこう信頼されてるんで、一週間くらいしたら次が見つかって、住所も電話番号も書けると思う」  方向感覚力が優れているのは野生動物に近いということで、強い生命力の証明だ。 「身分証明書ある? 運転免許証でいいんだけど」  土田はさっきの財布から免許証を取り出して、テーブルに置いた。うそはついてない。土田帆巣。大型免許を持っている。若く見えるが三十三歳。五つ年下だ。 「金、払う」と土田は言った。  まことはその個性的な財布を見ながら、言った。 「ペットは保険がきかないの。今日までで七万かかってる」  土田はぎょっとした顔で財布から所持金全部を出し、三万円をテーブルに並べた。次に財布の中から通帳を出した。ゆうちよ銀行だ。  土田はそれを開き、ほっとしたように笑顔で言った。 「よかった。こっちには金がある。明日おろして来る」  まことはさりげなく通帳を覗いたが、残高は十万に満たない。トラック運転手ってそんなに低賃金なのだろうか。それともギャンブルにでもつぎ込んでしまうのだろうか。  失業した上に全財産の半分を「ネコ」に払って、しかもこの笑顔。この男、だいじょうぶだろうか? あとさきを考えずに行動するところは、百瀬とそっくりだ。自分の身が心配ではないのだろうか? 百瀬と決定的に違うのはルックスだ。  すこぶる良い。  まことは二万円を手に取ると一万を土田に差し出し、「カプセルホテル、ただじゃないでしょ」と言った。  土田は手を出せずにいる。 「残りは働いて返して」 「おれが、ここで?」 「長距離得意でしょ? 四国まで届けて欲しいものがある」 「…………」 「うちのバン、ナビないけど平気?」 「平気です。いったい何を運ぶんですか?」  まことは指を差した。黄色いヘビが目をさまし、シャーッと叫んだ。失敬だ、と怒っているようだ。 「ガラス細工《ざいく》の命だから、そっと運んで欲しいの」  ひるんでいる土田の胸に、まことは二万円を押し付けた。 「ガソリン代と高速料金。領収書はもらってきてね」 [#改ページ] [#見出し]   第二章 密室猫妊娠事件  寿春美は顔の上半分をゴーグル、下半分を立体成形のマスクでガードし、マスクの下からストローをつっこみ、ベンチでココア味の豆乳を飲んでいる。  春の屋上は気温がちょうどよく、眺めもたいへんよろしい。  隣に座っていた亜子が食べかけの弁当《べんとう》のふたを閉めて言った。 「限界だと思うわ」  すると春美はこもった声で「かゆいです」と言った。マスクで美声がだいなしだ。 「我慢しないで下に降りましょう」と亜子が立ち上がる。 「去年まで平気だったのに」 「花粉症デビューね。わたしもくるかな、そろそろ」  エレベーターホールへ向かう亜子のあとを春美はおとなしくついて行く。エレベーターに入ると、春美は五階のボタンを押した。 「わたしたちのオフィスは七階よ」亜子が注意すると、春美はゴーグルとマスクをはずして深呼吸をし、いつもの美声を取り戻した。 「いくら花粉の攻撃にさらされたって、そんなにぼけちゃいませんよ。五階の丸山商事、玄関前に喫煙《きつえん》ルームを設置したんです。今は昼休みでみんな外へ行ってるから、空いているはずです。空調はいいしおしゃべりが外にもれない」 「そんな、だれかいるでしょう」 「おっさんばかりの会社です。みんな外食だし、愛妻《あいさい》弁当をもってくるような男性は、とっくに禁煙してますよ」  春美の読み通り、喫煙ルームは空いていた。空気清浄作用が絶大なのか、全く匂わない。声がもれる心配もなく、ふたりは残りの弁当を食べながらしゃべった。 「猫弁に告白されたってとこまでは聞きました」  すると亜子は頬をあからめた。 「そうなの。大福さんといると心地よいから、離れたくないのでしょうって」 「離れたくないのでしょう?」 「ええ、百瀬さんは春美ちゃんのことを言ったんだけど」 「なんでわたしが出てくるんですか?」 「遠回しの告白だと思う。どきどきしちゃった」 「意味不明。それ、ミッションの最中に猫弁が言ったんですよね。今回のミッション、ちゃんと実行できたんですね? 朝ご飯を食べる[#「朝ご飯を食べる」に傍点]仲になったんですね?」 「ええ。ちゃんとふたりで朝ご飯を食べた。やっぱり春美ちゃんのアドバイスはすごい。朝会うと、心がぐんと近づくような気がしたわ」 「朝会う? 朝会った[#「朝会った」に傍点]んですか?」 「ええ。今朝八時にエデンで待ち合わせて」 「朝の八時にエデンで……待ち合わせた?」  たしかに朝ご飯を食べる仲[#「朝ご飯を食べる仲」に傍点]になっている。  なんなのこのふたり?  春美はプロジェクトの行く末を憂《うれ》えた。見切りをつけようかしらと思った瞬間、ピンクの朝顔の花が頭に浮かんだ。  あれは小学一年の夏休み。朝顔の観察日記が宿題だった。  種を植え、芽が出てふた葉となり、毎朝はりきって日記をつけるんだけど、つるは伸びても花は咲かず、とうとう八月三十一日に「咲いた」とうそを書き、図鑑の絵を写して始業式に提出した。ところが翌朝、いきなり大輪の花が咲いた。ピンクでところどころ紫の線が入った個性的な花だ。  実直に待っていたら魅力的な絵が描けたのに。したたかさがあだとなった。  よし、こんどこそ大輪の花を待とう。このプロジェクト、気長に楽しもう。さて次のミッションはと考えていると、亜子が意外なことを口走った。 「百瀬さんに週末の予定を聞かれたの。なんと一泊旅行」 「ええっ!」  驚きのあまり、春美は次の言葉まで二秒はかかった。 「急展開じゃないですか」 「そう思う?」 「まあ、婚約してるんだから、普通というか、そうこなくちゃ、ですよね。でも意外です。猫弁も男だったんだ。で、どこへ行くんです? 箱根? 熱海? 沖縄?」 「秋田」 「秋田? なんで秋田?」 「良い靴屋さんがあるんですって。そこで足に合った靴を作ってもらって、わたしにプレゼントしたいって言うの。百瀬さんはエンゲージシューズって言ってた」 「指輪じゃなくて、靴ですか!」 「貴金属を女性にあげるの、身の丈に合わない気がするんですって。靴にさせてくださいって」 「んー。筋金入りの変わり者ですね。婚約指輪無し? いいんですか、それで」 「百瀬さんからもらえるものなら、なんだってうれしい」 「靴はまあ、どうでもいい。お泊まりってことは、前進です」 「その靴屋の店長さんが女性で、彼女のおうちに泊めてもらえるんですって。百瀬さんは職人さんの家に泊めてもらうって言ってた」  春美は亜子の目を見た。互いにしばらく見つめ合い、最初に春美が「はははは」と笑い出し、亜子も一緒に「はははは」と笑った。  亜子はいたずらっぽくうちあけた。 「飛行機が苦手なんです、って言ってみたの」 「え? 去年家族でハワイに行ったじゃないですか」 「うそついたのよ。ふたりきりになれるのは道中だけだから、時間がかかるほうにしたの。新幹線だと片道四時間半もかかるのよ」 「四時間半! お尻が痛くなりそうですね」 「すごく楽しみ。結婚相談所で会ってた時も、喫茶店でも、向かい合ってるでしょう? 横に並ぶと距離がせばまる気がするわ」  春美はうなずく。正面から横に。たしかにそれは恋人から夫婦へ移行する一歩のように思える。しかしこのふたり、恋人期間をすっとばしてないか? 「往復九時間もあんな理屈っぽい人と何を話すんですか?」 「景色を見てればいいのよ」 「あいつ、きっと解説しますよ。今見えた棚田はですね、明治なんねんに政府がなんたらかんたらで、どうだらこうたらしたあげく、うんぬんかんかんと」 「わあ、楽しそう」 「気が知れない」 「それより春美ちゃんはどうなの? 梅園《うめぞの》さんの投資を断って、それっきり?」 「時々電話があって話を聞いてます。たまにはわたしからもかけますよ。どんな人物かさぐっているんです」 「プロフィールに書いてないこと?」 「ええ。性格とか育ちを知りたいんです。代々地主の家柄というわけではないようです。苦労人で、おそらくバブル期に不動産で儲けたクチですね。勉強は独学みたい。どうやって財をなしたか、興味津々ですよ」 「聞けばいいじゃない」 「聞けば教えてくれることなんて、真実とは言えません」  そう言って春美はサンドイッチを口に押し込んだ。  亜子は言葉に詰まった。時々春美の話についていけなくなる。自分の頭はすごく単純で、幼いように思え、劣等感をもつ。 「たしかに二千万なんてすごいお金だし、不安になるのはわかるけど」 「二千万?」春美は鼻で笑った。 「わたしの野心はもっと大きいんです」 「どういうこと?」 「絶対に誰にも言わないでくださいよ」 「ええ」 「家族にも言っちゃだめですよ」 「はい」 「猫弁にもです」 「ええ」 「猫にも」 「口から出しません」 「わたしは梅園さんのプロポーズを待っているんです」  亜子は驚き、箸《はし》を落としてしまった。タコのウインナが床ではねた。箸とタコを拾いながら、何か言いたいのだが、言葉にならない。  やっと言えたのは、「それは無理じゃないかなあ」だ。 「なぜです」 「五十も上でしょう?」  すると春美は言った。 「わたしはね、恋愛なんかに何も期待していないんですよ。ちょっとでも期待してたらこんなに太ったままではいません」 「…………」 「もっとたしかなものを手に入れたいんです」  そのあと春美はだまった。それは梅園の全財産ということなのだろうか。話の流れとしてはそうなるのだが、もっと違うことを言っている気がした。  百瀬も春美も、亜子にとってはブラックボックスだ。次に何を言いだすのか全然わからない。たしかなもの。自分はもっているだろうか? ふたりにくらべ、自分はいかにも平凡ですかすかな人間に思えてしまう。  百瀬と一泊旅行に行く。今の亜子にとっては、それがたしかなもののすべてだった。      ○  白亜《はくあ》の豪邸。それは百瀬にとってなつかしさすら感じる馴染みの存在である。子どもの頃は絵本でいくども遭遇したし、不動産屋のチラシで見たこともある。が、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。  部屋の中央にあるペルシャ絨毯《じゅうたん》を見つめながら、主人が来るのを待った。  大人五人が悠々手足を伸ばして寝転がれる広い絨毯は、八角形でシルク百パーセント、おそらくアンティークに違いない。家具はすべて年季が入っており、高級品でシックだ。部屋全体に統一感があり、落ち着きがある。  飾り棚に銀のトロフィーがある。「Cat Champion Ship 2012」と刻印されている。  百瀬はソファから降り、絨毯に顔をくっつけるようにして編み目を読む。深い織り目、柄の特徴から、イラン南部のすでに滅びた部族特有の作品と思われる。ペルシャ絨毯は古いものほど値が上がる。この一枚は百瀬の年収をはるかに越えるだろう。  不思議なことに、この部屋は猫の毛が見当たらない。絨毯の保全のため、猫立ち入り禁止区域なのだろうか。猫の目にはすばらしく広い爪研ぎ[#「爪研ぎ」に傍点]に見えるだろうから。 「あの……」  声がした。顔を上げると、ご婦人がお盆を持ったまま、とまどった顔で百瀬を見下ろしている。家政婦だ。  蜘蛛《くも》のような格好で床にはいつくばっていた百瀬は、今さら遅いと思いつつも、精一杯紳士の立ち居振る舞いを心がけ、立ち上がってにこりと微笑んでみせた。そしてなるたけ上品にソファに座ってみせる。  家政婦もレディだ。見なかったことにしてくれたようで、落ち着いた手付きでティーカップをテーブルに置くと、花柄のポットからゆっくりと紅茶を注ぐ。やわらかな音、ダージリンの深い香りが部屋じゅうに広がる。 「あと少しお待ち下さいね」  家政婦は下がろうとした。 「ちょっとお話を伺ってもいいですか?」 「わたし、ですか?」  家政婦はけげんな顔をした。六十歳くらいのふくよかな女性で、白い割烹着《かっぽうぎ》を着ている。昭和のおかあさんといったたたずまいだ。 「お名前を伺ってもよろしいですか?」 「ルウルウ・ベベさまのご懐妊《かいにん》のことでしたら、わたしは何も存じ上げません。猫にはさわったこともありませんし、着任したばかりなので」 「いつからここに?」 「一ヵ月ほど前からです」 「前任の方は?」と尋ねたところで、「お待たせしました」と声が響いた。  館の主の登場だ。家政婦はほっとしたように部屋を出て行った。  背が高い。  それが白川ルウルウの第一印象だが、握手を求められて近づくと、そうでもない。百瀬は身長百七十五センチ。それより十五センチは低く、せいぜい百六十センチというところか。ほっそりとして、顔は小さく色白で、目は顔からはみだすほど切れ長で大きく、鼻筋が通っている。  白川ルウルウは年代物らしい椅子に座った。体を斜めにしてひじかけにもたれ、足は軽く斜めにそろえている。心身共に疲弊し、体がまっすぐにならないらしい。  女優というものは家では化粧をしないのだろうか。すっぴんだ。  服は黒く、くるぶしまであるロングのワンピースで、胸元は象牙色《ぞうげいろ》の肌が浮きたって見える。六十を超えているはずだが、肌もスタイルもみずみずしい。しかし予想外に地味だし、かなり気弱そうな表情をしている。風が吹いたら飛ばされてしまいそうな、はかなげなたたずまいである。  かつて関わった死体の身代金事件を思い出す。霊柩車を盗まれたシンデレラシューズ社長の妻・野口美里《のぐちみさと》は、きらびやかなマンションに住み、耳の聞こえないチンチラゴールデンと暮らしていた。彼女はソフィア・ローレンに似ており、常にすきのない化粧をし、一流の服を身に着けていた。シャンデリアが良く似合う、ゴージャスな女性だった。  比べてこちらはあまりに質素だ。 「どうしたらいいかわからないんですの。助けてくださる?」  弱々しい声だ。切れ長の目は目薬をさしたようにうるんでいる。  百瀬は返事をためらった。うっかりイエスと言ったら、人生を根こそぎからめとられてしまいそうな妖気を感じる。野口美里よりもずっと手強そうだ。  白川ルウルウは栗色の長い髪を一本の太い三つ編みにしている。 「わたくしは最初から先生と直接お話ししたかったんですの。でもKが反対したんですわ。女優はプライベートで表に出てはいけない、自分にお任せくださいというものだから。なのに彼女、途中で放り出してしまったんです。おそらくKにはたかが[#「たかが」に傍点]猫という気持ちがあったんですわ。次のSも、やる気が感じられませんでした。そのまた次の子なんて、名前を覚える気にもなれません」  百瀬は天井を見た。 「万事休すのときは上を見なさい。すると脳がうしろにかたよって、頭蓋骨《ずがいこつ》と前頭葉《ぜんとうよう》の間にすきまができる。そのすきまから新しいアイデアが浮かぶのよ」  これは子どもの頃、母に教えてもらった方法で、効果は抜群である。約二秒でKが川田《かわだ》でSが佐野《さの》だと気付いた。マネージャーを頭文字で呼ぶなんて、さすが女優、ユニークだ。気の毒なのは味見克子で、Aとすら覚えてもらえないらしい。  川田も佐野も百瀬の事務所に一回ずつ訪れたが、どちらもそれなりに熱意を持って問題解決の道を求めようとしていた。それなりに、というのは、やはりこれは「密室猫妊娠[#「猫妊娠」に傍点]事件」であって、「密室殺人事件」ほどには危機感をもってなかった。それはたしかだ。 「ベベはわたくしの命なんですの。その子がわたくしの知らない間に……」  妊娠と発音するのをためらっているようだ。本当に女優なのだろうか? 山の手のご婦人といった風情だ。 「避妊手術は考えなかったんですか?」 「まあ!」  白川ルウルウは片手を口にあて、不愉快そうにうつむいた。そういう言葉は聞きたくないらしい。 「失礼しました」百瀬は謝った。 「ではさっそく状況確認をしたいので、ルウルウ・ベベちゃんに会わせてください」  すると白川ルウルウは再び眉根をよせた。 「ベベはもう三歳ですの。立派なレディです。ちゃん[#「ちゃん」に傍点]は少し子どもじみていませんか?」  百瀬はゆっくりと息をすって、はいた。ペットを呼び捨てにされることを嫌う飼い主は多いが、「ちゃん」で注意されたのは初めてだ。 「失礼しました。ベベさん[#「さん」に傍点]にお会いできますか」 「ええ。もちろんですわ」  よかった。さんで正解だ。 「その前に」と白川ルウルウは言った。 「なんでしょう?」 「手を洗っていただけますか? イタリア製のすぐれたソープがございますから」 「ご心配にはおよびません。ベベさんにはさわりませんよ」 「でも家具には触れますでしょう? 部屋を調べますよね? それをベベがなめるといけませんので」 「…………」 「先生の事務所には猫がたくさんいると伺っています。万が一ということがございます。猫|白血病《はっけつびょう》、猫エイズ、猫|腹膜炎《ふくまくえん》、もろもろの感染症が心配なんです。うちのベベは外界と遮断されて完全無菌状態なので、ウイルスに耐性がありませんの」  なるほどそういうことか。それら感染症はそう簡単にはうつらない。人を介して感染することなどありえないが、ここは彼女の気の済むようにしたほうがよさそうだ。 「わかりました。洗面所はどこですか?」  白川ルウルウは立ち上がった。  連れていかれたそこは、まるで高級ホテルのように近代的かつ豪華な設計だ。三面張りの大鏡、洗面台はうすいピンクが入った白で統一され、血色がよく見えるしくみだ。  百瀬は鏡に映った自分を見て、ゆうに五歳は若返ったような気がして、ぞっとした。  五年前は三十五歳。家族も彼女もおらず、このままでは一生ひとりだと不安になって、結婚相談所のパンフレットを取り寄せた。ところが入会金の額におののき、一歩をふみ出すのに一年かかり、婚約にこぎつけるのにさらに三年かかった。  現在四十歳。あいかわらずぼろアパートに暮らし、あいかわらず猫弁と呼ばれており、くせ毛がひどく、以前、酔った柳まことがぽろっと言った言葉を借りれば、「男性偏差値は最低ランク」だ。  しかし今は婚約者がいる。幸せの頂点にいると言っていい。五年前とは月とすっぽんだ。もうすっぽんには戻りたくない。そっと胸に手をあててみる。シャツのポケットに婚約者の写真がある。自分を孤独から救ってくれた女神。週末の秋田行きが楽しみだ。彼女の足をしっかりとした靴で包んであげたい。  良い香りの固形石鹸で手を洗い、ふわふわの白いタオルで水分をふきとる。  手を消毒すると、三階のベベルーム[#「ベベルーム」に傍点]に入ることが許された。白川家のスリッパを履いているため、足の消毒はしなくて良いらしい。  白川ルウルウは鍵を使ってドアを開けた。百瀬が入るとドアは自動的に閉まった。  一瞬、あの世へ迷い込んだかと思った。  白白白。オール白。天井も床も壁も家具もすべてが白い。  三十畳ほどの洋室で、床は毛足の短いカーペットが敷き詰められ、壁は二メートルの高さまで麻素材でできている。豪勢な爪研ぎだ。摩耗《まもう》したら壁ごと張り替えるのだ。なんと贅沢《ぜいたく》な設計であることよ。  豪華なキャットタワー、豪華な猫用トイレ、高級和紙の屏風《びょうぶ》、すべてが白もしくは薄いベージュで統一されている。  大きな窓から公園が見える。そこだけ色があり、絵画のようだ。緑が目にやさしい。  窓ははめ殺しだ。密室での妊娠と聞き、第一に考えたのは外猫の侵入だが、窓からは不可能だ。天井近くに換気扇があり、ここも侵入不可能だ。  空気清浄機が稼働しており、人間がくつろぐスペースもある。白い二人がけのソファが一脚と、丸いガラス製の低いテーブルがひとつ。肝心の猫が見当たらない。 「屏風のむこうにいます」  白川ルウルウはトイレの目隠しになっている屏風を動かした。  すると銀色に輝くメインクーンの背中が見えた。丸くて中型犬ほどの大きさがある。首周りは白くふさふさとし、ほかは銀色で、豊かなしっぽが輝いている。顔は見えない。  人間に見られると落ち着かないようだ。再び屏風のむこうに隠れてしまった。  妊娠中は神経質になっている。百瀬は猫の観察をあきらめ、部屋をゆっくりと歩いてみた。ドアは一ヵ所、窓ははめ殺し、想像の余地がないほどの密室に違いなく、ここを勝手に猫が出入りするのは不可能である。  厳密に言えば、鍵さえかかってなければ、中から廊下へ出ることはできるだろう。ドアノブに前足をかけて体重を預ければ、ドアに隙間ができるはずだ。しかし廊下から入るのは不可能だ。手前にドアを引き、体を隙間にねじこむのは猫の運動神経をもってしても、至難《しなん》の業《わざ》だ。ちょうつがいのバネは手を離すと閉まるしくみになっている。出て行ったら最後、入れない。猫の力の限界だ。  こんな環境で、いったいどうやってベベは妊娠したのだろう? 「ベベさんはずっとここで育ったんですか?」 「生後六週間で知り合いから譲り受けました」 「病院には連れて行きますよね?」 「幼い頃は予防接種で連れて行きましたが、大きくなってからはかかりつけの獣医に来てもらっています」 「この部屋以外には」 「ベベは基本的にこの部屋から出しません。チャンピオンシップでLAに行くとき以外は、ここにいます。部屋から出すと、怪我をしたり、病気に感染したり、誤飲も心配ですしね。小さい頃、わたくしの部屋で指輪を飲み込んでしまい、大騒ぎになりました。吐いてくれたので、手術は避けられましたが、怖い思いをしましたわ」 「ベベさんの体の変化に気付いたのは?」 「二週間前の夜です。京都での舞台が終わってここに来て、京人参を買ってきたのであげようとしたら、食べなくて」 「京人参が好きなんですか」 「人参が好きなんですの。変わってますでしょう? もりもり食べますわ。千切りが好きで、すりおろしは好みません」  人参を食べる猫なんて聞いたことがない。レタスを好む猫はかつて事務所にいたが。 「大好物に見向きもしないし、こんなふうに人が近づくのを避けるので、具合が悪いのだと思って、すぐにかかりつけの獣医に電話をかけたのですが、先生は学会でいらっしゃらなくて、かわりに助手がここに来て診たところ、あろうことか、妊娠かもしれないと言うんです」  百瀬は白川ルウルウが「妊娠」と言うのを聞き、そろそろ「妊娠」と発言してもいいのかしらと思った。 「わたくし誤診だと思いましたの。だってこの部屋から一歩も出していないんです。すぐにペットシッターのIを呼んで、別の病院に連れて行かせたんです。超音波で調べたら、やはり妊娠していると言うのです。日数などはわからないそうですが、お腹にいるのはたしかだそうで。Iも驚いていました。ありえないと」 「その後はどちらの獣医さんにかかっています?」 「マネージャーのKを呼び、弁護士を探してもらって、ええとその」 「百瀬です」 「そう、百瀬先生に依頼し、医者には診せていません。どなたか良い獣医さんを紹介してくださらない?」 「訪問治療をメインにしている獣医がいます」  まこと動物病院とここはそう離れていないので、まことも負担にならないだろう。妊娠のことも念のため確認する必要がある。出産予定日はいつだろう? 「生まれた猫は、どうしますか?」 「まだそこまで考えられませんの。超音波で妊娠を告げた医師は、おろすかどうか聞いたらしいです。Iが電話でそう言うので、とんでもない、すぐに連れ帰るよう言いました。命を引きずり出すなんて、それはできません。でも、生まれた子を育てる気にもならないんです。わかりますでしょう? 父親が誰かもわからないんですのよ。  この子はチャンピオンクラスのお相手との縁談がいくつもあるんです。今度優勝したら、その時こそ最高のお相手と縁談をまとめて、チャンピオン二世の誕生を楽しみに待とうと夢見ていたんですわ。こうなった原因をはっきりさせて、犯人に責任をとってもらい、生まれた猫もひきとってもらいます」  当時家に出入りしていたのはマネージャーのKと家政婦、そしてペットシッターのI、美容コンシェルジュのミスター美波《みなみ》だと言う。白川ルウルウは、女性はイニシャルのみ、男性はかろうじて苗字を覚えているらしい。百瀬の苗字は覚えるだろうか。 「お客様はありませんでしたか? ご親戚《しんせき》のかたとか」 「身内との行き来はありません。友人もおりません。こういう仕事をしていると、妙な人間が昔の知り合いだと言って訪ねてくることもありますが、門前払いします」  こんなすばらしい豪邸に客がないとはもったいない。 「出入りする人間の連絡先は家政婦に聞いてください。ノートに付けてあります。彼らのうち誰かが真相を知っているはずですけど、直接聞くのは気か引けますの。わたくしが疑っていると知ったら、無実の人は傷つくでしょう? わたくしは誰も傷つけずに、真相を知りたいのです」  なるほど理屈は通っている。  マネージャーふたりから聞いた話では、白川ルウルウはそうとう頭にきており、犯人を見つけろといきりたっていたそうだが、会ってみると本人はいたって冷静で、説明もわかりやすい。  白川ルウルウは次の公演の打ち合わせで出かけるため、支度をするので二階の自室へ戻ると言う。ベベルームを出る時、きっちりと鍵を閉めた。 「地方公演はすべてキャンセルし、日帰りでできる仕事だけにしました。今はごはんもトイレ掃除もすべてわたくしがやっています。犯人がわかるまで、誰もこの部屋へ入らせません」  白川ルウルウは鍵を握りしめて言い、二階の部屋へと去った。身近なスタッフを信じられないのは悲しいことだろう。  百瀬は家政婦に付き添ってもらい、ベベルーム以外の部屋を見学した。  まずは三階だが、ベベルームのほかにクローゼットがあり、ドライフードや缶詰など高級なエサのほか、ドイツから輸入した猫トイレ用木材チップ、ベベルーム専用掃除機、コロコロクリーナー、除菌スプレーなどがある。  人間用トイレは一階と三階にあり、どちらも小窓があり、三階のトイレからは公園が見える。二階は主がお着替え中ということで遠慮《えんりょ》し、三階の次に一階を見せてもらった。広いリビングのほか、十畳もあるキッチン、その倍の広さのレッスン場がある。そこはバレエ教室のようなミラーハウスになっており、女主人専用で、弟子《でし》や仲間の出入りはないらしい。  出入りする人間の連絡先を聞くと、家政婦はノートを開いてみせる。一ページ目に人名と職種と連絡先のメモがある。二ページ目からは、その日の仕事と時間が克明に記してあった。  九時三十七分 朝食の用意完了。メニューはトマトのサンドイッチ、マンゴー三分の一個、ダージリン一杯、ホワイトアスパラのサラダ  十時十七分 朝食の片付け  十時五十四分 一階フロアの掃除  十三時二十五分 弁護士来訪。リビングに通し、ダージリン一杯 「このノートは?」 「おしごと日誌です」  ノートの表紙にマジックでそう書いてある。山田美枝《やまだみえ》という名前もあった。 「わたしの名前です」 「これを付けるのは家政婦協会の決まりですか?」 「いいえ、白川家の決まりです。仕事の内容をすべて記載するように言われています。お忙しい方なので、口頭での報告はしません」  百瀬はペットシッターと美容コンシェルジュの連絡先をメモした。 「お仕事のたびにいちいち記録するのは、面倒ではないですか?」 「とんでもない。まだ一ヵ月ですけど、このお宅はお客様がないし、白川さんは外食がほとんどで、楽です。これを付ける以外に難しいことなんてひとつもないですから」 「猫の世話は?」 「さわったこともありません。前はシッターさんが来てましたし、今は部屋に閉じ込めたっきりで、あそこに入っちゃだめというので、ひと部屋ぶんは掃除の仕事が減ってます」 「山田さんの前の方はやめさせられたんですか?」 「いいえ、本人から代わってくれないかと言われたのです」 「何か事情が?」  山田美枝はしばらく考えていた。正確に答えようとして、慎重になっているようだ。まじめな人柄がうかがえる。 「彼女はスペシャルなんです。仕事が完璧で、頭もいいんです。以前、一緒に大きなお屋敷で働いたことがあるんですが、雇い主の指示をすべて暗記して、メモひとつとりません」 「メモをとらない」 「外国人からの電話も、ちゃんと受け答えできるんです」 「英語がしゃべれるんですか? 中国語?」 「何語だがわたしには」 「そんな優秀な人がどうしてここをやめたのでしょう」  山田美枝はあたりを窺うようにして、小声で言った。 「わたしにゆずってくれたんだと思うんです」 「どうして」 「楽だから」  そう言って山田美枝は肩をすくめ、ちっちゃく舌を出した。いたずらを見つけられた五歳の女の子のようだ。 「わたし手際が悪いんです。家事、あんまり得意じゃないんです。主婦歴四十年ですけど、夫がたいそうやさしくて、文句を言わない人でしたので、ちっとも上達しなかったんです」 「そんなあなたがどうしてこの仕事を?」 「夫が亡くなって、子どももいなくて、仕事を探したんです。スーパーのレジは暗算の試験があって、落ちました。どうにか家政婦協会に拾ってもらえたんですけど」 「紅茶、おいしかったですよ」  山田美枝はふわっとうれしそうな顔をした。 「高級茶葉ですからね。一生懸命いれました。でもミドリさんみたいに腕のいい人がいれたら、もっとおいしいはずですよ」 「ミドリさん?」 「ゆずってくれた人です。フルネームは知りません。協会では愛称で呼び合うので」 「ミドリって、下のお名前ですか」 「さあ、知りません」 「年齢はおいくつくらいですか」 「わたしと似たり寄ったりだと思いますよ」 「顔は」と聞こうとして、やめた。個人的には気になるが、密室猫妊娠事件とは関係ない質問だ。  その時、「出かけます」とよく通る声がした。見ると、キッチンの入り口に白川ルウルウが立っている。青いワンピースを着て、同色のベレー帽をかぶっている。見違えるほどに華やかだ。やっと女優に見えた。  家政婦の山田美枝とともに、百瀬は玄関へ行った。「いってらっしゃいませ」という山田の声に合わせて、思わず頭を下げ、まるで使用人のように依頼人を見送った。  女主人がいなくなると、山田美枝は言った。 「身内をいっぺんに亡くして途方に暮れている未亡人《みぼうじん》なんですって」 「未亡人? 白川さんがですか?」 「次の舞台はそういう役なんだそうです。役作りで、家の中ではずっとはかなげ[#「はかなげ」に傍点]な未亡人になりさっているんです」  とすると、気弱に見えたのは、演技? 「わたしがここに来た頃は荒々しい気性でした」 「そうなんですか」 「打ち合わせに行くときは、素《す》の白川ルウルウさんに戻るんです。ご自分で車を運転なさるから、役のままだとあぶないんですって」  素。百瀬は白川ルウルウの「出かけます」のアクセントに微妙なくせがあるのを感じた。おそらく地方出身に違いない。  山田美枝はひとなつっこい口調で話す。 「人格がくるくる変わるんです。素に見える部分もあやしいってミドリさんは言ってました。うそをつくと、どこからどこまでがうそか、自分でもわからなくなっちゃうものなんですって」  百瀬はミドリという名が気になってしかたがない。  七歳の時に別れた母は、百瀬|翠《みどり》と言う名前だ。別れた日の言葉も声もしっかり覚えているのだが、不思議なことに顔がはっきりとしない。  別れて三十三年、もし町ですれ違っても、きっと母だとわからない。せめてこのめがねを目印に、母が息子を見つけてくれないか。そんなかすかな望みを持って、母にもらった丸めがねをかけ続けている。祖父の形見だと聞いたが、祖父はどんな人物だったのだろう。  再びキッチンに戻って、山田美枝のおしごと日誌を一ヵ月分読ませてもらった。  二週間前からベベルームの掃除がなくなった以外、ひっかかる点はない。以前、ベベルームの掃除は、ペットシッターがいる時間帯に行っていたそうだ。掃除機を持ち込むと、ベベは警戒してキャットタワーに登ってしまうので、掃除は楽だったと言う。  白川家に出入りしたのは、マネージャーの川田と佐野、ペットシッターの今井静香《いまいしずか》、美容コンシェルジュのミスター美波。玄関から中に入らない宅配業者やファンは記載しなくていいらしい。 「ミスター美波の来訪は定期的ではありませんね」 「忙しい時は一ヵ月くらいぽーんと空くらしいですよ。最近見ないですね。二週間くらいいらしてません」 「でもこの日は二度来ていますね」 「美容の道具一式を家に忘れたと言って、取りに帰ってまた来られたのです」  マネージャーふたりはすでに事務所で話を聞いた。あとは今井静香とミスター美波に会って話を聞こう。家政婦の前任者ミドリは、一ヵ月前にここをやめている。妊娠事件に関係あると思えないが、気になる。個人的に気になる。  百瀬は白川家をあとにし、閑静《かんせい》な住宅街を通って公園に立ち寄ってみた。ベベルームから見えた場所だ。  常緑樹は青々とし、落葉樹の新緑はまだのようで、芽吹いていない。桜は無数のつぼみを付けている。ヨーイドンのヨーイの段階だ。咲く直前の桜の幹は、灰色にこころなしかピンク色が混じっているように見える。内側に色素がみなぎっているのだろう。実際に花が咲くと色素はいっせいに花にいきわたり、幹はむしろ黒ずんで見える。  百瀬は桜を見て、白川ルウルウを思った。還暦を過ぎているのに、彼女は芽吹く前の桜のような印象だ。エネルギーが内側にくすぶって、今にも爆発しそうに見える。  それにしてもここは居心地がいい。静かで落ち着く。  ベンチに男がひとり寝ており、その周囲に野良猫が三匹、それぞれ好きなスタイルで寝ている。密室の窓から見えるここは、ベベにとって手の届かぬ楽園かもしれない。  百瀬はあらためて白川家を見た。白亜の豪邸だ。  ロミオとジュリエットを思い出す。  ここの猫が窓越しにベベと恋に落ち、ベベルームにしのびこんで愛をはぐくんだという考えは、ロマンチックだが現実的ではない。外からあの部屋に入り込むのは不可能だ。  百瀬はベンチの男を見る。たとえばこの男が猫の恋路を応援して、あのトイレの窓から野良猫を押し込んだとしても、その猫がベベルームに入るのは無理だ。  ベベルームのはめ殺しの窓は、日光の反射で中がよく見えない。  ふと、想像してみる。大福亜子があの窓のむこうにいて、こちらを見ている。  あんがい現実もそんな感じではないだろうか。  父親に反対されている以上、結婚は難しい。だがしかし、そのことは不思議なくらい百瀬の喜びに影を落とさない。このまま窓越しの関係でいるのも、そう悪くはないと思ったりもする。  なにせ大福亜子がこちらを見て微笑んでいる。間にガラスの一枚や二枚あっても、たいしたことではない。どんなに離れていても愛ははぐくめる。  この世に大福亜子が存在する限り、未来は光り輝いて見えるのだった。      ○  朝五時。  柳まことはリュックを背負い、自転車で街を走っている。白衣は着ておらず、長袖のシャツにジーパンだ。  頬に風を感じて気持ちがいい。病院から一キロほど離れた緑豊かな公園に入り、自転車を停めると、ベンチで寝ている男に声をかけた。 「番《ばん》さん、おはよう」  男は目を開け、上半身を起こした。グレーのニット帽をかぶっており、元は紺色だったと思われる長袖のトレーナーに、元は茶色だったと思われるぶかぶかズボンをはいている。ベンチの周囲には猫が五匹、寝転がっている。  まことはそのうちの一匹、三毛猫の耳のただれを確認し、「うん、かなり良くなった」と声に出して言った。そしてリュックから薬袋を取り出し、番に渡す。 「あと三日、朝のごはんに混ぜてください。あとは自然に治ると思う」  番はだまって薬袋を受け取る。 「めんどうだけど、お願いしますね」と言うと、番は低い声で「すまねえな」と言った。  驚いた。この男の口から礼を言われるなんて初めてだ。  こういうとき過剰《かじょう》反応は禁物《きんもつ》だ。さりげなく「いい天気ですね」と言いながら、ベンチの端に腰掛ける。番は何も言わず、膝にのぼってきた猫の背中をそっとなでている。  静かだ。見えるのは緑の隙間から見える空。あとは土の匂いと緑の匂い。遠くから車の走行音が聞こえる。  ここにいるとストレスを感じない。疲れた心に安静をくれるが、長時間いればきっと飽きる。まことにとってここは静かすぎる。  もうじき桜が咲く。するとここら一帯にはレジャーシートが敷かれ、花見の宴会でにぎやかになる。その間、番は消える。  番の本名は知らない。このあたりでは『猫の番頭《ばんとう》さん』と呼ばれている。公園の主のようにここにいて、猫と暮らしている。  ここは『猫公園』と呼ばれる猫のたまり場だ。地域猫を管理する主婦グループがルールを決めている。すべての猫に避妊手術をし、エサは夕方決まった時間にやる。番はそのグループから何度も「勝手にエサをやるな」と抗議を受けているが、耳を貸さない。  管理グループから相談を受けて、まことは番と話をするようになった。  ホームレスではなく、家はあるらしい。荷物を持ち歩いてはいないし、四季に応じて服も着替えている。  番は人嫌いだが、猫にやさしい。自分の食べ物をわけてやるので、猫たちになつかれている。管理グループは「猫には猫専用のエサをやるべし」と力説するが、この男と猫を見ていると、健康とかルールとか、たいして意味がないのかもと思えてくる。猫の表情はしっぽに表れる。番のそばにいる猫たちはみなしあわせそうだ。  去年、学会で発表された調査結果によると、二十歳を超える長寿猫の食生活を調べたところ、「ときどき家族のごはんをわけであげていた」という証言が半数を占めた。ひょっとすると、飼い主の「いいかげんさ」がストレスフリーとなって、猫の長寿につながるのかもしれない。  とはいえ獣医としては、病気の猫はほってはおけない。せめて薬だけでもと、こうして番に届けている。薬と聞くと、番は案外すなおに受け入れた。きちんとあげてくれているようで、猫風邪や皮膚病も治癒した。  番の顔色をうかがいつつ、本日一番聞きたいことを切り出した。 「番さん、最近このあたりで大きな灰色猫見なかった? しっぽがふさふさで犬みたいな」 「うん」 「見たの?」 「うん」 「いつごろ?」 「…………」 「ごはん、あげた?」 「食わない」 「そう」 「いじめられてた」 「だれに?」 「こいつら」  番は足元の猫を見た。なるほどなわばり争いで負けたのだ。体は大きいのに闘争心がないのだろう。 「気が弱い猫なのね」 「切った」 「え?」  番はズボンのポケットからはさみを出してみせた。手芸用の糸切りばさみだ。 「毛があっちこっちからまって、イガイガの草の実もついてて、ひどいなりだった。だから、毛を切ってやった」  あの猫だ! 間違いない!  やはり灰色猫はここにいたんだ。人の手でここに捨てられたのかもしれない。そして野良猫たちに追われて、国道でさまよっていたのだろう。 「その子、今、うちにいるから」  すると番はおやっという顔をした。 「元気にしてるから」 「うん」  番はその後、話しかけても返事をしない。会話に疲れたようだ。それでも今日は今までで一番長いこと話せた。まこと自身も、番との会話はひじょうに疲れる。気に障ったら関係修復不可能だと思い、気を使いまくるからだ。  病院に戻り、外来受付の準備をしていると、電話が鳴った。百瀬からだ。 「妊娠した猫? 往診? すぐには無理だな。訪問診療は今できないんだ」 「なにかあったんですか?」 「車が無い。四国まで届け物があって、運転手を雇ったんだ。そっちに行けるのは来週頭かな。いい?」 「では来週お願いします。ところでまこと先生、キャットチャンピオンシップってご存知ですか」 「ああ、アメリカ西海岸でセレブがやってる猫祭りだな」 「いわゆるキャットショーですよね」 「血統書付きの猫をずらっと並べて、ルックスやしつけを比べて、投票で一位を決める。そこまではどこも同じなんだけど、目的はいろいろだ。その西海岸のショーは見合いと考えていい」 「猫のお見合いですか?」 「猫の見合いを装った、セレブ同士の出会いの場ってやつさ」 「飼い主が自分の結婚相手を見つけるのですか?」 「いや、ビジネスパートナーだ。ハリウッドが近いから、映画関係者がショーに多く出入りしている。猫を通じてプロデューサーと出会って、小さな役を得たって話を聞いたことがある」 「日本ではないことですね」 「たしか参加規定に避妊手術をしていない猫という条件がある。チャンピオンになると、いいお相手が見つかる。純血種同士で結婚させて、そのジュニアがまたショーに出て、またいいお相手を見つけて。その陰で人間同士のビジネスも成立するってわけだ」 「なるほど」 「いよっ、国際弁護士! ハリウッドから弁護の依頼か?」 「いえ……そういうわけでは。では来週、よろしくお願いします」  電話を切ると、すぐにまた電話があった。こんどは四国の動物園からだ。 「今、受け取りました! すばらしいビルマニシキヘビです」  園長はうれしそうに到着を報告する。 「もう名前がいっぱいなんです」 「名前が? いっぱい?」 「園内に名前募集箱を設置したら、実物を見る前から名前が殺到してて」 「それはそれは」 「ひまわりとかたんぽぽとかバナナとか」 「え?」 「黄色いへびくんです、と書いたので、黄色いものばっかり集まって」 「もっとかっこいいのないんですか」 「残念ながら今のところかっこいい系はありません。でも来週から展示しますから。展示時間は先生の指示書通り、短時間にしますよ。健康第一ですからね。お客が喜びますよ。きっといい名前が集まります。決まったら連絡しますね」 「楽しみにしています。あ、まって。運転手と代わっていただけますか」 「もう帰られました」 「……そうですか」 「運転が良かったのでしょう、ヘビは長距離のストレスを全く感じなかったようで、今、もりもりえさを食べています」  まことは電話を切ったあと、ひょうしぬけな気分になった。  ひとことでいい。土田にねぎらいの言葉をかけたかった。疲れがとれるよう、途中で温泉にでもつかってくるといいと言いたかった。  外来診療開始まで一時間ある。  まことは三階に行き、灰色猫を見つめた。「ネコ」だ。こちらも名前を募集してあげたい。  ぐっすりと寝ている。毛はまだ生えそろっていない。番さんに切ってもらったんだ。過酷《かくこ》な野良猫時代も、誰かに気遣ってもらえてたという事実に、ほっとする。  そっとケージを開けた。灰色猫はしずかに目を開けて立ち上がると、ひとつ大きなあくびをした。優雅《ゆうが》なあくびだ。美しい白い歯がのぞく。体に良いドライフードばかりを食べて育ったのだろう、虫歯も歯垢《しこう》もない。  ゆっくりと出てきた。  美しい歩き方だ。気品がある。まことがプライベートルームのドアを開けると、灰色猫はくんくんと匂いをかぎながら、しゃなりしゃなりと進み、中へ入った。  プライベートルームに動物を入れるのは初めてのことである。実は人間もまだだ。二十四時間急患の電話におびやかされる日々の中、ここだけは誰にもじゃまされないまことだけのテリトリーであり、死守していた。  灰色猫はまことのベッドの上にひょいと飛び乗り、我《わが》が物顔《ものがお》で寝そべった。  ひどいルックスなのに、貴族のような立ち居振る舞いだ。  土田の言葉を信じれば、彼はすぐに別の運送会社に就職が決まる。そして社宅を借りる。そこがペット可だとは思えない。運良くペット可だったとして、土田はほとんど家におらず、全国を移動する生活だ。  あの男、いったいどこでネコを飼うつもりなのだろう?  帰ってきたらそこのところを問いただしてみよう。おそらく何も考えておらず、再びあせるに違いない。とまどった顔を見るのが楽しみだ。  そう思った瞬間、壁にかかっている鏡が目に入った。自分の顔がうつっている。  にやけている!  灰色猫と牛男。どちらも氏素性のわからぬやっかいものに違いない。なのに彼らのことを考えると、うきうきする。なぜだろう?      ○  神田《かんだ》にある十二階建ての細長いビル。その十一階の会議室では、プロジェクターを用いて経営戦略会議が行われており、小松専務三十二歳が口角泡をとばしている。 「世界へ打って出るには、企業イメージの一新が必要です。まずは社名の変更、それに応じてロゴデザインの変更、さらに十年先を見据《みす》えたキャッチコピーを考えましょう。いつまでも『小松のコショーはよいコショー』では時代に乗り遅れます」  すると司会の経営部長が「『小松のコショーはよいコショー』はすばらしいコピーじゃないですか。国民の頭に刷り込まれていますからね」と反論する。なにせ現社長が五十年前に考えたコピーだから、無下にはできない。  小松専務は話を続ける。 「これからはターメリック、バジル、ローズマリーのほか、ハーブ類を強化します。社名はリトルパインコーポレーションに変え、若い女性に強くアピールするため、イメージタレントはまっちゅんでいきましょう」 「まっちゅん? 外国人ですか?」と今度は営業部長が質問する。 「アイドルユニット『スカッシュ』のボーカル松田俊《まつだしゅん》ですよ。彼がエプロンをしてフライパンを器用に使ってオムライスを作る。そこにリトルパインの調味料をふりかける」 「オムライスならコショーですよね」 「バジルでいきます」 「ですがやはりコショーは我が社の一番の顔ですし」 「まっちゅんの上腕二頭筋《じょうわんにとうきん》が目立つよう、体にぴったりしたTシャツを着せます。フライパンをさっと返して黄金色のオムライスを白い皿にのせる。そこにリトルパインのケチャップでアイラブユーと書き、彼女の前に置くわけです」  小松専務はスクリーンに投影された絵コンテを指し示しながら、役員と部長ら計十二人を相手に力説する。父の小松社長は腕組みをしながら目をつぶっている。  広報部長が発言する。 「我が社はもう五十年、おふくろの味路線で林《はやし》とも子《こ》さんをイメージキャラクターとしてきましたが、それをやめるということですか?」  小松専務はうんざりする。白髪頭一ダースを骨董市《こっとういち》で売り飛ばしたい。 「おっしゃるとおり、五十年です。半世紀ですよ。目を覚ましてください。林とも子は御歳《おんとし》七十歳。もはやおふくろの味ではなく、おばあちゃんの味でしょう?」  室内がざわつく。林とも子をイメージキャラクターにしたのは現社長で、当時国民的マドンナだった彼女を土下座《どげざ》でくどき落とした過去がある。 「まっちゅんをCMに起用すれば、売り上げは三倍になります」  小松専務は自信満々に叫び、すると社長がぼそっと言った。 「国民のほとんどがすでにうちの商品を使っている。今の三倍使えば、味が濃すぎてかなわん」  社長は立ち上がり、出て行った。  その後、形だけの決議をとり、リトルパイン派が一票、現状維持派が十一票、無効が一票。民主主義の鉄則により、社名『小松』と林とも子は温存された。  五時間後、小松は不動産屋にキャンセルの電話をかけた。  新しいマンションへの引越は中止となったのだ。なんと婚約者が「まっちゅんと会えないなら、あなたとは結婚できない」と言い出した。  その上、不動産屋はこう言うのだ。 「この時期にキャンセルですと、手付金はご返金できません」  泣きっ面にハチとはこのことだ。彼女が気に入ったので、ひと月ぶんを前金として不動産屋に払った。もちろん払ったのは小松だ。それが返ってこない。そのうえ婚約破棄とはなさけない。  あの女、まっちゅん目当てで俺に近づいたのか。くそっ!  婚約指輪を返せと言いたいが、みみっちい男と思われたくない。  小松は住み慣れた我が家で一晩中飲み明かそうと思い、酒をしこたま買い込み、家に戻った。祖父が遺してくれた一軒家の広すぎるキッチンで、バーボンをグラスに注ぎ、つまみに高級チーズを盆に並べてリビングに行くと、がくぜんとした。  ヘビがいない。  いつも愚痴《ぐち》を聞いてくれたビルマニシキヘビがガラスケースごと消えている。  なぜ消えた?  記憶にないと言えばうそになるが、こんなに悲しい夜には、いなくては困る。  まずはバーボンを一杯飲んだ。そののち、酒の勢いを借りてまこと動物病院に電話した。 「預けてあるヘビを返してくれ。今すぐだ」  すると驚くべき答えが返って来た。 「もううちにはいない」  小松は激怒した。おそらく走れメロスの十倍くらい激怒した。  腹立ちまぎれに「泥棒、返せ!」と叫んだ。  すると電話のむこうで呼び鈴が鳴り、ぎいっとドアが開く音が聞こえ、柳まことが「おかえりなさい」と言った。そして電話は切れた。  小松は受話器を持ったまま、空のグラスを片手に、放心状態で立っていた。  あの白衣の生意気美女が「おかえりなさい」と言った。しかもその声色はやわらかく、今まで聞いたことのない艶《つや》がある。あの美女がそんな声を出したらやばい。かなり自分好みの女になってしまうではないか。  しかし彼女にはすでに「おかえり」を言う相手がおり、自分には女はおろかビルマニシキヘビすらもいない。父が作った王国で、「ぼっちゃんのぼはぼんくらのぼ」と陰口を叩かれながら、高給を得るだけの日々が続くのだ。  この世にあるものはすべて敵なり。  小松は歯をくいしばり、世界に立ち向かう決心をした。  それには弁護士だ。腕の良い弁護士を雇い、悪徳《あくとく》獣医を訴えよう。  われながら良い思いつきだ。半日ぶりに元気が出る。  小松はネットで動物関係に強い弁護士を検索した。 [#改ページ] [#見出し]   第三章 三千代の靴  深夜。百瀬は自宅アパートで座卓に向かい、大学ノートになにやら書き込んでいる。さび猫のテヌーが百瀬の肩に乗り、ノートを覗き込んでいる。かなり、重たい。  部屋のすみには年季の入ったブルーのナップザック、鴨居《かもい》のハンガーには紺色のチェックの長袖シャツと、濃紺のチノパンツがかかっている。プライベートな外出着の一張羅《いっちょうら》だ。  仕事ではいつもYシャツとスーツだし、近所ではTシャツとハーフパンツでうろうろしている。プライベートでの身ぎれいな服がない。婚約者の亜子に会うときはいつも仕事の前後なので、スーツだ。スーツはいい。あれこれ考えなくて済む。  チェックのシャツにパンツ。紺と濃紺だが、これでいいのかしら。不安だが、迷うにも他がない。  明日が楽しみだ。腹の底から楽しみだ。  三千代《みちよ》の店で、亜子の足をしっかり採寸してもらう。死体の身代金事件で出会った靴作りのスペシャリスト・大河内《おうこうち》三千代。大手靴メーカーの会長だったが、現在はわけあって秋田で店を開いている。順調だそうだ。三千代は靴を見るだけでその人の人間性を見抜く力がある。亜子の靴を見て、なんと言うだろう。  秋田には日本随一と呼ばれるメインクーンのブリーダーがいる。亜子が採寸してもらっている間、そこを訪ね、メインクーンの習性や出産について詳しく聞いてみよう。ベベの妊娠の経緯を解明して責任追及をするのが任務なのだが、百瀬が一番気がかりなのは出産で、母子ともども健康であってほしいと願っている。  靴ができあがるのは先になる。取りに行くのにまた亜子を誘うことができる。すでに婚約者なのだが、誘うのについ「口実」を考えてしまう。まだだいぶ遠慮がある。  亜子の都合がつかなかったら、自分ひとりでも靴を取りに行こう。婚約者の足が三千代の靴で包まれる日を想像すると、わくわくする。  ノートを閉じ、ナップザックにしまった。煎餅布団《せんべいぶとん》に入ると、テヌーがもぐりこんでくる。  テヌーの鼻のしめりけを腕に感じながら、闇の中でしばらく目を開けていた。  今夜は眠れるだろうか?  小学校の遠足の前日、よく友人達は眠れないと言っていた。自分はいつもぐっすりと眠れた。遠足も運動会も日々の授業も、目の前にあるすべてのものが同等に存在し、社会科の教科書の一ページも、登った山から見下ろす風景も、同じように百瀬の心に響き、そこにたいした差はなかった。大学受験も司法試験も特別な日と意識することなく安眠できた。  眠れなかったのは一度だけ。七歳で施設に預けられたその日の夜だ。  見知らぬ建物、見知らぬおとな、見知らぬ子どもたち、見えない明日。すべてが不確かな中、たったひとつ確信できたのは、「母はとうぶん迎えにこない」ことだった。  暗闇で目を開けたまま寝付けず、その夜は永遠に終わらないかに思われた。やがて部屋がうすぼんやりと明るくなり、すずめの鳴き声が聞こえた。それは前日まで住んでいたアメリカの家で毎朝聞いた声と同じだった。  ここにもすずめがいる。同じ声で鳴いている。  世界が急に身近に感じられ、安堵して眠りに落ちた。その日は誰も百瀬を起こさず、夕方まで寝かせてくれた。  目覚めたとき、そこはもう「昨日もいたところ」になっていた。昨日から知っている人たちと、カレーライスを食べた。それまで食べたことがなかったので、おそるおそる食べた。カレーとともに、すとんとおなかの底に落ちたんだ。ここでやっていくのだと思えた。状況が飲み込めたのだ。  それ以来、眠れなかった経験はない。学問や仕事で徹夜はよくやるが、布団に入ればすぐに夢のなかだ。今夜はどうだろう? 緊張と喜びで胸がいっぱいだ。今夜こそひとなみに「眠れない」経験ができるかも。  数秒後、百瀬は深い眠りに落ちていた。  朝八時半。  大福亜子は東京駅の地下通路にある『銀《ぎん》の鈴《すず》』の前に立っている。  有名な待ち合わせ場所だと百瀬は言ったが、ほかに人はいない。そんなに有名ではないのかもしれない。そもそも亜子は鈴の存在すら知らなかった。地下道に堂々、ひとかかえもある大きな鈴がガラスケースの中におさまっている。亜子は鈴を見るふりをしながら、ガラスケースにうつる自分の姿をなんどとなくチェックする。  紺色のワンピースを着ている。ウェストにベルトがついたクラシックなデザインだ。白い丸襟《まるえり》が愛らしい。百瀬の口ぶりから、秋田のお店は大切な存在らしい。亜子にとってこの旅は、結婚相手の親戚への挨拶まわりのようなものである。  たいそうかしこまった気持ちだ。きちんとしたふるまいをしよう。百瀬の嫁として合格点をもらいたい。  自分の姿にすきがないか、再度チェックする。靴は履き慣れたグレーのパンプスだ。もう少し華やかなものを履きたかったが、百瀬が何度も「履き慣れた靴で」と念を押すので、こうなった。その三千代さんという女性は、靴を見ていろんなことがわかるらしい。占い師のような人だろうか? 「いろいろと指摘されて、自分のことを理解できたし、勇気をもらえた」と百瀬は言う。  ちょっと怖い。百瀬の相手にしてはずいぶんと平凡な女だと思われるに違いない。  こぶりなボストンバッグを肩からかけている。一泊となると、女はどうしても荷物が増えるが、あまりはりきっている様子を見せたくなくて、トランクはやめた。  服装に問題は見つからず、髪をチェックする。いつものショートカットで、代わり映えはしない。そしていつもの薄化粧だ。「いーっ」と口を横に開き、歯をチェックする。以前、百瀬は見合い相手の口紅《くちべに》が歯についていたと指摘した。だいじょうぶ、ついてない。  われながら今朝の自分はパーフェクト。にっこり笑って腕時計を見る。  八時三十五分。待ち合わせ時間を五分過ぎた。新幹線はたしか九時十五分発と聞いている。少し不安になる。弁護士は忙しいと聞く。急に仕事が入って行けなくなったらどうしよう。今日は同僚の春美と旅行へ行くと親に言ってきた。旅行が中止になったら、どこに帰ろう。  携帯を見るが、連絡はない。中止になったら連絡がくるはずだ。  信じて待とう。  すると銀の鈴に百瀬がうつった。ふりかえると、百瀬が走って来る。ほっとした。  いつものスーツ姿で、手ぶらだ。一泊だと荷物が要らないんだ。  なんて男らしいのだろう!  男らしい男は亜子に近づき、息切れしながら「おはようございます」と言った。  亜子は「おはようございます」と頭を下げた。すると肩からバッグが落ち、あわてて両手で抱えた。  百瀬は「遅刻してすみません」と言いながら、さっと手を出し、亜子のバッグを持った。その時かすかに手が触れ、亜子はどきっとした。百瀬は「こちらです」と言いながら、もう歩き出している。亜子は百瀬の背中を追いながら、「このひとは紳士だ」と確信した。なんてたのもしいのだろう。うれしくて、つい顔がにやけてしまう。  亜子は思う。この地球上で現在一番幸福なのは自分だと。  階段を昇ると、東北新幹線の改札が見えた。  百瀬は立ち止まり、上着からチケットを出した。すべて用意してくれたのだ。  亜子はほっとして言った。 「ちょっとだけ心配しました。百瀬さん、行けなくなったんじゃないかと思って」  すると百瀬はチケットを亜子に渡しながら言った。 「ご名答。行けなくなりました」 「え?」  亜子はびっくりしてチケットを落としてしまった。  百瀬はそれを拾って、再び亜子に差し出した。亜子は目の前が真っ暗になり、チケットを受け取れないでいる。これはチケットではないんだ。じゃあ、なんなんだ? これ、なんだろ? 頭がぐるぐるして事態を飲み込めない。 「わたし、親にうそまでついて……」  いけない。このことは言ってはいけない。親が許してないと知ると、百瀬は傷つくだろう。ああ、でも。この失望はどうしたらいい? 少しは伝えてもいいのではないか。 「わたし、すごく楽しみだったので、がっかりです」と言ってみる。  百瀬は笑顔で言った。 「心配しないでください。大福さんは予定通り行けますから」 「え?」 「ちゃんとエスコートしてくれる人が秋田駅で待っています。今朝あちらに連絡して、きちんと段取りしましたから。安心して旅を楽しんできてください」 「え?」 「ほら、これ。わたしの分の予算が浮いたので、グリーン車の券が買えました。往復分あります。わたしは入場券を買ったので、お見送りします。さ、中に入りましょう」  亜子はチケットを渡された。その時再び手が触れたが、もはやどきっとするどころじゃない。展開が飲み込めず、ぼうっとしたまま自動改札を抜け、百瀬の背中を追って歩くのだが、まだ事態が飲み込めない。  ホームに着くと、もう車両は準備万端、ドアが開いており、旅を楽しむ人たちが笑顔で乗り込んでいる。百瀬はせっせと売店でお茶や弁当を買い、亜子のバッグを持って、グリーン車に乗り込んだ。  見失わないように百瀬の背中を追うのだけど、見えているものすべてが磨りガラスの向こうにあるように思え、どうにもはっきりとしない。みぞおちに砂が詰まったような嫌な重さを感じる。現在地球上で一番不幸な人間は自分だと感じる。  でもその不幸にも確信がない。  百瀬が「ここです」と手で示す座席に、言われるままに座った。窓際の良い席だと思うが、どうかしら? 良い席ってなんだっけ?  亜子はすっかり自分の感情に確信をもてなくなった。こちらがふわふわしているのに、百瀬はやけに確信に満ち、てきぱきと行動する。百瀬は弁当と飲み物を亜子に手渡すと、バッグを上の棚に丁寧にしまい、にこにこしながら言った。 「着いたら、むこうに木村《きむら》さんという男性が迎えに来てくれています。背が高い方で、職人さんです。きっと楽しいおしゃべりが聞けますよ」  亜子はこっくりとうなずいた。手が震えているが、百瀬は気付かないようだ。 「良い靴を作ってもらってください」  そう百瀬が言った時、発車のベルが暘った。  百瀬はいつのまにか電車を降り、ホームから笑顔で手を振っている。自分の行動になにひとつほころびがないと信じきっている顔だ。ひどいことをしたという自覚がないに違いない。ひょっとすると、これはひどいことではないのかしら?  ひどいことってなんだっけ?  亜子は笑顔を作り、手を振った。すると、すーっと、景色が動き出し、あっという間に百瀬は消えた。  もう笑顔を作らなくていい。  窓に自分が映っている。こわばった顔だ。景色は目に入らない。どれくらい時間が経っただろう。百瀬が買ってくれた幕《まく》の内《うち》弁当が膝の上にあり、それがぽつ、ぽつ、と鳴っている。下を見て、やっと気付いた。いつのまにか泣いていたのだ。  以前、春美に「百瀬さんからもらえるものなら、なんだってうれしい」と言ったが、この弁当がうれしいか? ひとりで見知らぬ土地に行き、見知らぬ人に作ってもらう靴がうれしいか?  答えはNOだ。  亜子はやっと自分の感情に確信がもてた。悲しいという確信だ。  好きな人に、ひどいしうちをされた。  ワンピースのポケットからハンカチを出して目に当てた。薄いクリームイエローのハンカチで、花柄だ。いつどこで買ったのか記憶にないが、以前、公園で百瀬に貸したことがある。百瀬はきれいに洗ってアイロンをかけて返してくれた。その日から特別なハンカチになった。大事な日、つまり百瀬とのデートの時に携帯している。  亜子はそれから約四時間、ハンカチを握りしめ、窓ガラスを睨《にら》み続けた。 [#改ページ]      ○ 「というわけなんです」  小松は百瀬法律事務所の応接室で、ちらちらと本棚の上を見ながら、なんとか説明を終えた。  スチール製の本棚の上から黄土色《おうどいろ》のしっぽが垂れ下がり、ぴくぴく動いているのが気になってしかたがない。猫は熟睡しているとき、ときたま痙攣《けいれん》のようなものを起こし、手足およびしっぽが震える。そう珍しくないことなのだが、猫を知らない人間には死にかけているようにも見える。  小松の話は自慢に始まり、あちこち横道にそれた。横道が八十パーセント、本題は二十パーセントの比率であり、しかもその二十パーセントのうち半分がわかりにくい。  百瀬は話を整理した。 「小松さん、あなたはある問題を抱えていて、ペットのビルマニシキヘビをまこと動物病院に預けました。問題が解決したので、ヘビを引き取ろうとしたところ、まこと動物病院はあなたに無断でヘビを転売してしまったということですね」 「はいそうです」 「そのヘビを取り戻すという方向でよろしいですか?」 「ぜひそうしてください」 「損害賠償請求ではなく、あくまでもヘビ本体を取り戻したいのですね?」 「ええ、ヘビが必要なんです」 「ということはつまり、ある問題[#「ある問題」に傍点]は解決し、今後も発生しないということですか?」 「えーと、それはどうかな」 「ヘビを預かってくれる施設はなかなかありません。ある問題が再び発生した場合、ヘビはどうしますか?」 「どうするかな」 「さしさわりのない範囲で、問題の内容を教えていただけませんか」  コンコン、とノックする音がして、ドアが鬨いた。七重がしずしずとお茶を運んできて、テーブルに置く。出した手が引っ込まず、七重の目はテーブルの上に釘付《くぎづ》けとなる。 「これは?」 「小松さんがくださいました」  百瀬が言うやいなや、七重はそれを手に取った。麦わら帽子をひっくり返したようなカゴに入った調味料の豪華なセットだ。 「これ、小松のコショーはよいコショー[#「小松のコショーはよいコショー」に傍点]ですよね?」  小松は「ええ」と言った。 「ひょっとして、小松のコショーの方ですか?」 「専務です」 「ふうー」  七重はうっとりと調味料を見つめた。 「これ、欲しかったんですよ」  そう言ったとたん、豪華セットは七重のものになった。 「小松のコショーはほかと違うんです。風味がだんぜん、ばつぐんです。ほんの少しで香りが豊か。安いお肉も失敗した野菜炒めも、ぐーんとおいしくなるんです。小松は主婦の秘密兵器です」  七重は演説を終えると、満足げにセットを抱えて出て行った。  小松は腕組みをして、なにか考え込んでいるようだったが、やがてぽつりと言った。 「小松は主婦の秘密兵器です。いいコピーですね。実にいい」  そう言いながら、手帳に万年筆で『小松は主婦の秘密兵器です』と書き、しばらく字面をながめたのち、「主婦」を「主夫」に直したり、戻したりをくり返し、結局「主婦」に落ち着いた。 「次の企画会議はこれでいく」 「さすが専務さん、いつもアンテナをはっていらっしゃる」と百瀬は感心した。  すると小松は身を乗り出して「白髪頭一ダースを相手に日々戦争ですよ」と言い、ためいきをついた。さきほどまでピリピリしていたが、少し打ち解けたようだ。 「ある問題[#「ある問題」に傍点]っていうのは、婚約者のことなんですよ」といきなり切り出した。  婚約者と聞いて、百瀬は思った。亜子を乗せた新幹線がそろそろ秋田に着く頃だと。  小松はひとつひとつ事実を咀嚼するように話す。 「婚約者と新居を見て歩いたんです」  百瀬はそういうことを自分もしてみたいと思った。 「眺望が良いマンションがあったんです。ヘビを持ち込めないのですが、婚約者がそこがいいというので、やむなくそこに決めました。手付金を払い、ヘビをまこと動物病院に預けたのですが、事情が変わってマンションをキャンセルすることになったんです」 「つまりヘビを飼い続けられる状況になったんですね」 「そうです。ところがヘビは転売された、手付金は返ってこないで、もう、ふんだりけったりですよ」 「不動産屋が手付金を返せないと?」 「ええ、そう言いました」 「払う時、手付金という名目でしたか? 予約金とか、預かり金という名目でしたか」 「さあ……どうだったかな」 「領収書はありますか」 「自宅にあります」 「あとで見せてください。取り戻せるかもしれません」 「え? そうなんですか」 「手付金は契約成立時に発生するもので、戻りませんが、予約のための預かり金となると、契約は成立していないことになります。キャンセルすれば、戻って来ます。そのあたり、あいまいな表現で消費者を騙し、詐取する業者もおりますから、一応たしかめてみましょう」 「戻ってくるかもしれないのか……」  戻らない場合もありますが念のためです。領収書を確認して取り戻せる名目でしたら、わたしから業者に連絡して返金手続きを致します」 「ありがとう」小松は声を詰まらせた。  百瀬は驚いた。調味料の老舗・株式会社小松の専務である。彼にとってはおそらくはした金だ。涙ぐむほどの金額ではない。おそらくなにか、心が折れてしまうような事情があるに違いない。  小松は吐き捨てるように言った。 「婚約破棄されたんですよ」  百瀬はどきっとした。自分が今一番恐れていることを、この男は経験したという。 「原因は? 理由はなんだったんです?」 「約束を守れなかったんです」 「約束? どういったことですか」 「人に会わせる約束を果たせなかった。それだけのことで、婚約解消されちゃいました」  小松は肩を落とした。すっかり百瀬に心を許し、見栄も外聞もなくなったようだ。  百瀬は小松が気の毒で気の毒で気の毒で、胸が痛くなった。  夜中の三時、寝ているところにいきなり電話があり、「まこと動物病院を訴える」と男が叫んだ。事務所の電話は業務時間外は留守電になっており、緊急の場合はこちらにどうぞと百瀬の携帯番号が流れる。しかし今までその番号にかけてくる依頼人はいなかった。  記憶に無い声である。名乗らずにどんどんしゃべるし、いたずらかと思ったが、聞けば聞くほど本気のようだ。まこと動物病院への不満というのもひっかかる。  声が苛立っており、「今日話を聞いてくれ」と言う。酒を飲みながらかけているらしい。もしここで百瀬が依頼を受けなければ、よその弁護士をあたると毒づいた。  金になるならどんな無茶も引き受ける弁護士はいっぱいいる。まことが心配だ。裁判になり、訴訟が棄却されたとしても、相当いやな思いをするだろう。ここは自分が引き受けるべきだ。そう百瀬は判断した。  部屋の隅にあるナップザックを見た。大学ノートや一泊ぶんの下着やらタオルやら歯ブラシで、ぱんぱんにふくらんでいる。ここに秋田行きの夢がいっぱい詰まっている。それを見ながら断腸《だんちょう》の思いで「話をうかがいます」と言った。  かくいうわけで、百瀬は秋田行きをあきらめた。百瀬の人生は七歳からずっと「自分のつもり[#「つもり」に傍点]を無にする」ことの連続だったから、切り替えには慣れている。  さて、自分はあきらめたものの、こちらの都合で亜子のスケジュールまで変更するのは申し訳ない。絶対してはいけないことと考え、明け方を待ち、秋田に電話して丁寧にお願いし、細かく段取りをし直した。短時間で頭をフル回転し、がんばったと思う。  自分は約束を死守した(と百瀬は思っている)。だから婚約者を失わずに済んだ(と百瀬は思っている)。うまくやれずに失敗し、こうして傷ついている男を見ると、ひとごととは思えない。どうにかして励ましたい。まことと交渉して、ヘビを取り戻してあげたい。 「まずマンションの予約金返還の交渉から始めましょう。こちらは早いほうがいいです。ヘビの件は少し時間をください。まこと動物病院に行き、先方の事情を聞いてみます」  小松は「よろしくお願いします」と頭を下げ、おとなしく帰った。  七重は猫トイレのスコップを持ったまま、百瀬を睨んだ。 「説明してください、先生。わたしは本日、休日出勤しています。土日の猫の世話は本来、先生の仕事です。でも先生はこの週末、大福さんに婚約靴を買ってあげるため、秋田へ婚前旅行に行っているはずですよね。だから土日の猫の世話をお願いしますとわたしに頭を下げたじゃないですか」 「はいそうです」 「休日出勤の手当は予定通りもらえますよね」 「もちろんです」 「秋田に行かずにいきなりやってきて、依頼人まで来るじゃないですか。どういうことですか?」  そこへ秘書の野呂法男が入ってきた。 「あれ? みなさんおそろいで。本日は休みですよね」  野呂はいつもスーツだが、今日はシックな黒いシャツに、麻のパンツをはいている。 「あら野呂さん、ずいぶんおしゃれですこと」  七重は驚きの声をあげた。  野呂は照れたように言う。 「夜、大学の同窓会があるんです。その前に少し、事務を片付けておこうと思いまして」  七重は野呂の左手を見た。薬指に指輪がしっかりとはまっている。  野呂は六十一歳、独身である。信頼を得るために指輪をはめていると言っていたが、同窓会くらい、はずすべきではないかと七重は思う。友人をだますのは良くないし、そろそろ同窓生に未亡人も増えてくる年齢だ。チャンスがめぐってくる可能性をシャットアウトしなくてもいいのに。それほど今日の野呂はダンディで、同窓会ではさぞかしもてるだろうと思われる。  一方、百瀬はじっと野呂を見つめ、服装を記憶に刻んだ。大人の男のおしゃれとは、こういうものなんだ。自分は学生みたいな服装で、旅に出ようとしていた。  野呂は百瀬に尋ねた。 「先生、秋田行きは中止ですか?」 「急な依頼がありまして、行けなくなりました」  そこで七重が口をはさむ。 「今、小松のコショーの専務が来てたんですよ。よりによって今日。こんな大事な日に断れないなんて、いったいどんな依頼だったんですか」 「ええ、その、たいしたことでは」  柳まことを訴えようとしていると知ったら、七重は生涯小松のコショーを使わないだろう。それは七重的にも小松的にも生産的ではないから、黙っておくことにする。  野呂は笑いながら言った。 「大福さん、怒っていませんでしたか? 女性は予定通りが好きですからね」  すると百瀬は胸をはった。 「行けないのはわたしだけです。大福さんには迷惑をおかけしていません」  野呂と七重は同時に「え?」と叫んだ。  百瀬はデスクにむかい、仕事を始めながら言った。 「今ごろ秋田に着いて、みんなで楽しくやっていると思います」  野呂と七重は見つめ合い、奇妙な表情をした。どちらも言葉を選び、選び過ぎて何も言えないようだ。しばしの沈黙の後、よっつの目はあわれむように百瀬を見つめた。  七重はそっと噛んで含めるように言った。 「やってしまったことは、どうこう言いません。過去は消しゴムで消せませんからね。けれどここからが肝心です。挽回《ばんかい》の余地があるとは思えませんが、やるだけやってみることです」 「七重さん、おっしゃる意味がわかりませんが」 「大福さんがいつ帰るか、電車の時間はわかりますか?」 「明日の夕方六時には東京駅に着くはずです」 「むかえに行くといいですよ」  百瀬はおやっという顔をした。 「気がつきませんでした。それはいい考えですね。そうします」 「荷物とか、持ってあげるといいです」  すると百瀬は再び胸をはってこう言った。 「それは今朝、実行しました」  百瀬はそれから意外な過去を語った。 「昔のことですが、駅で重たい荷物を持っている女性がいたので、お持ちしましょうと言って、手を出したんです。すると女性が『どろぼう!』と叫び、わたしは周囲の人に取り囲まれました」 「まあ、先生。いつのことですか?」 「大学三年の春です。駅長室に連れて行かれて、すぐに誤解は解けたのですが」 「よくわかってもらえましたね」 「その一年前に、ホームに落ちた駅員さんを助けて、表彰されたんです。それで駅員さんに信頼があったわけです。でも、どろぼうと叫ばれて以来、女性の荷物を持つことに抵抗があったんです。今日は思い切って荷物を持ちました。手を出しても大福さんは悲鳴をあげず、黙って持たせてくれました。わたしは信頼されていると感じ、たいへん誇らしい気持ちになりました」  百瀬はにこにこと満足顔だ。  七重は言った。 「とにかく明日は迎えに行って、お夕飯でもご馳走してあげたらいいですよ」  続いて野呂が提案した。 「先生は忙しすぎます。婚約者のいる身ですから、プライベートな時間をしっかり守るべきです。もっと仕事をわたしに任せてください。たとえば密室猫妊娠事件。犯人を見つけるまでは探偵の仕事じゃないですか? 探偵は資格が必要ありません。途中までわたしがやったとして、法律違反にはならないでしょう」 「野呂さん、いいんですか?」  野呂は髭を指でつまみながら言った。 「シャーロックーホームズ。彼は親友ワトソンをじょうずに使ってあれこれ調べます。ワトソンは足を使い、ホームズは頭を使います。わたしをワトソンだと思って任せてください」  百瀬は心からありがたいと思った。 「そうしていただけますか。小松さんの件はわたしが進めますので、密室猫妊娠事件の関係者の証言をとってきてください」  百瀬はさっそく野呂に資料を見せ、密室猫妊娠事件の経緯を説明した。      ○  秋田駅の改札を前にして、亜子は歩を止めた。  どうやって新幹線を降り、ここまで歩いてきたのだろう?  そうだ。たしか「終点ですよ」と誰かが言い、亜子のバッグを棚からおろしてくれた。そのとき、「気分がお悪いのですか」と聞かれた。なんと答えたっけ。気分はじゅうぶん悪い。今も、ずっとだ。  おそらくその人に礼も言わず、荷物を持ち、新幹線を降り、人の流れにそって歩いてきたんだ。人間って無意識のままにある程度行動できるものらしい。  重たい気持ちで改札を抜けると、おかしなふたりが立っていた。  背はぴったりと同じ高さで、片方の体型がまんまる、片方は棒だ。並んでいるから「10」に見える。1のほうは目をぎょろつかせながら歩く人々を睨みつけ、0のほうは心ここにあらずといった風情で、スケッチブックを腹の前に掲げている。黒いマジックで「ようこそ大ふくさん」と書いてある。  百瀬の言葉を思い出す。 「むこうに木村さんという男性が迎えに来てくれています。背が高い方で、職人さんです」  1も0も男性だ。どちらが木村という職人なのだろう。忙しいだろうに、わざわざふたりで来てくれたんだ。亜子は精一杯笑顔を作って話しかけた。 「三千代さんのお店の方ですか?」  すると1が驚いたように言った。 「あんた、大福はん?」 「はい」  0が口を出す。 「想像とちごた。もっとおいしそうな人かと思ったで」  1は0からスケッチブックをうばい、思い切り頭を叩いた。 「あほ、失礼なこと言わんときや。誤解されるで」  目をまるくしている亜子に、1は言った。 「ちゃうちゃう、やらしい意味ちゃいますねん。こいつ、食い気ばっかの男で、大福っちゅう名前から、餅《もち》のように太った女やと思たんですわ」 「木村かて言うてたやん。そやそや、餅女やて。やきそば頭の恋人やから、たいしたことないでって。でもあれやな、餅っぽくないし、えらいまともなひとやったな」  1は真っ赤になって、バシバシと0を叩いた。0がおとなしくなると、ほっとしたように挨拶した。 「うち、木村言います。こいつは田村《たむら》。大福さんをお迎えにあがるよう店長から頼まれまして」  亜子は「よろしくお願いします」と頭を下げた。痩せて木みたいなほうが木村。太ってお米をたくさん食べそうなほうが田んぼの田村。そう覚えよう。結婚相談所の職員は、たくさんの名前を間違わずに覚えるのが任務だ。初対面の時に体型と苗字を結びつけるのは習慣になっている。 「大福さん、おなかすいてませんか?」  そう聞かれて、亜子は腕時計を見た。もうすぐ二時だ。お腹はすいているはずなのに、胸がつかえたような感じがする。「いえ……」と言うと、田村はあからさまにがっかりした顔になり、「けちな店長がおいしいもん食うてこいって三人分金くれたんやで」とふてくされた。  木村は田村の肩に手を置いた。 「来る途中、さんざん夢見さしてもらったやろ。ビフテキ食うだの、うなぎ食うだの、こいつはりきって」  木村か言い終わらぬうちに田村は叫んだ。 「さては、駅弁《えきべん》食ったんや!」  亜子は自分の手を見た。駅弁をぶらさげている。  田村は地団駄《じだんだ》を踏んだ。 「そやそや。新幹線言うたら駅弁や。なんでおいら、頭に浮かばんかったんやろ。食っちまってる可能性っちゅうやつをちらっとも考えんかったわ」  亜子は人が地団駄を踏むのを生まれて初めて見た。  田村はうらめしげに木村を見つめて言う。 「こういうの、とんかつとか言うんやな」 「それを言うなら、うかつ[#「うかつ」に傍点]やろ」 「そや、うかつや。うかつやった」  亜子は田村の真剣さに心打たれ、「これはまだ」と言った。  すると田村の目が光った。 「ひょっとしてまだ食ってないん?」  亜子がうなずくと、田村は叫んだ。 「それ、東京駅で買える一番高い幕の内やで!」  木村はひじで小突いた。「メシのことばっか言うな」  田村は駅弁に夢中だ。 「ええなあ、一番高いん、中身はどないやろ。食わへんから、中見せてえな」  亜子は駅弁を差し出し「よかったらどうぞ」と言った。  一瞬の間があった。田村がつばを飲み込んだのだ。 「ええのん?」 「はい」  亜子は百瀬への仕返しのような気持ちで、弁当を田村の胸に押し付けた。  田村は駅弁をだいじそうに両手で抱え、鼻をくっつけて匂いをかいだ。 「神さま仏さま大福さまや」  亜子はクスッと笑った。  百瀬は一生懸命この弁当を選んでくれた。それが今、田村という男に至上の喜びを与えているのだと思うと、妙におかしい。一度笑うと、クスクスが止まらない。笑えば笑うほど、胸にあったもやもやがすーっと消えてゆくのを感じる。  すると木村と田村がうれしそうに叫ぶ。 「わろたで!」 「おもろい?」 「よし! キムラタムラ再結成や!」 「注射はいやや!」 「それは採血《さいけつ》やろ」 「裁決は裁判所や」 「裁判やのに弁護士先生けーへんな」  亜子はころころと笑いが止まらない。  木村も田村もすっかり上機嫌だ。 「笑いのわかる女やん」  周囲の人々が思わず振り返るほど、亜子は笑った。ふだん、お笑い番組を見てもちっとも笑えないのだが、この男たちの会話はなぜか亜子の笑いのツボを刺激する。第一、なぜ秋田で大阪弁? わけがわからない。笑ったらお腹がぐう、と鳴った。 「聞いたか?」 「鳴ったで!」  木村も田村も笑い出す。  木村が運転する白いバンに乗って、三人は稲庭《いなにわ》うどんの名店に向かった。  亜子は助手席に座ってからも、ふたりの会話にしじゅうクスクス笑っていた。後部座席では田村がうどんを食う腹ごしらえとして駅弁をぺろりと食べた。  遅い昼食を終え、靴屋に着いた頃には、夕方になっていた。  絵本から抜け出たようなかわいらしい店だ。クリームイエローの外壁に、緑色の三角屋根。ドア上の小さな看板には『三千代の靴』と書かれている。緑の豊かな敷地のはじに、細い小川が流れており、さらさらと水の音が迎えてくれる。  おとぎの国に迷い込んだような気分だ。  店の前に黒塗りの大型車が停まっている。かなり、目立つ。政府の要人が乗るような物々しい車だ。 「お客さまかしら」  亜子はバンから降りながらつぶやくが、木村も田村もすっかり無口になっており、なにも言わない。  さっきはすっかり打ち解け、うどん屋で話がはずんだ。亜子が結婚相談所に勤めていると知った二人は、「どうやったら結婚にたどりつけるか」と真剣に尋ねた。  すると亜子の顔つきが急にプロ化し、ふたりの行動範囲、趣味、身につけるもの、過去の交際、理想の相手など次々質問、ふたりがあたふた答えると、結婚に向けてやるべきことを順序立《じゅんじょだ》てて指南《しなん》した。それはふたりにとって、簡単明瞭かつ大量の宿題であり、未来への希望でもあった。  プロがただで教えてくれたのだ。せっかくの教えを忘れないでおこうと思い、木村も田村もつい無口になってしまう。しゃべると記憶がこぼれ落ちてしまう気がするのだ。 「お客さまの車でしょうか」  亜子がしつこく聞くので、木村はしかたなく答える。 「今日はデンマーク大使やったかな」  亜子は窓から店を覗こうとして、飾ってある赤い靴に気付いた。  シンプルなのにかわいらしい。女の子なら一度はあこがれる、そんな靴だ。自分には似合わないが、飾っておきたいような、美しい形をしている。ショーウインドーにはその一足しかない。お店のシンボルらしい。  中に入ると、男女が抱き合っていた。  亜子は一瞬ひやりとしたが、それはハグ[#「ハグ」に傍点]で、白髪の男女はにこにこ笑いながら、「元気で」「バーイ」とやっている。  白い髭、グリーンアイの紳士は、亜子に「ハーイ」と言いながら、上機嫌で店を出て行った。女性は白い髪を頭頂部でぎゅっとおだんごにまとめてあり、忍者のような藍染《あいぞ》めの作業着を着ている。そして亜子を見た。魂まで見抜かれてしまいそうな眼力だ。 「大福さん?」 「はい」 「そう、あなたが」  白髪の女性はにこっと笑う。  亜子は驚いた。百瀬は亜子に「三千代さん」と言っただけで、年齢や容貌《ようぼう》について全く説明無しだった。五十代のいかめしい職業婦人という先入観があったが、目の前にいるのは八十代の活発な少女、というたたずまいだ。  思ったより高齢で、思ったよりみずみずしい。  店は広く奥行きがあり、採寸する接客スペースと靴を作る作業場がある。商品は並べておらず、さきほどの赤い靴以外、どんな靴を作っているのかわからない。 「わたしは大河内三千代。百瀬くんには以前お世話になった。奥にいるのが職人の桜井《さくらい》。靴作りの名手で、わたしより腕がいい。百瀬くんの靴は彼の作品だ」  桜井と言われた男は、靴を縫う作業をしながら、ちらっと亜子を見て、こくっと会釈をした。亜子はおじぎをしながら、百瀬が履いているサクライの靴を思い浮かべた。とても履き心地が良いと百瀬は言っていた。 「大福さんの靴は、わたしが作らせてもらうよ」  三千代はそう言うと、亜子の手をとり、中央にある椅子に座らせた。そしてひざまずき、亜子の靴を入念に見た。片方を脱がし、靴の形、材質、底の減り具合を確認し、中をのぞく。 「ほう」「なるほど」などと言いながら、今度は足を採寸しはじめた。 「夕方は足がむくんでいる。この状態で採寸し、明日の朝、もういちど測る」と言う。  いつのまにか木村も田村も店内から消えていた。隣の職人用の家に戻り、亜子からの指南を書き留めるつもりなのだろう。  桜井は奥の作業場で男物の靴を作り続けている。デンマーク大使の注文の品だろうか。  日はすっかり暮れており、亜子は突然、不安になった。  いつのまにか座っているけど。  きちんと挨拶《あいさつ》したっけ。  緊張して覚えてない。  今は体を動かしてはいけない気がする。なにせ三千代ははいつくばるようにして、亜子の足を観察している。上から挨拶するのは礼儀《れいぎ》としていかがなものかと考える。その一方で、非礼を一刻もはやくとりもどしたいとあせってしまう。  すると三千代は言った。 「挨拶したかったら、そのままの姿勢でしゃべっておくれ」  亜子ははっとした。  三千代は採寸しながら話し続ける。 「あなたが気だての良い娘さんだってことは、わかってる。今、緊張してるね。緊張するのは悪いことじゃない。こちらへの最大の礼儀だ。ちゃんと受け取ったぞ」  亜子は驚き、なにも言えなくなった。これから言うことなど、とっくに見抜かれている気がする。  三千代は言う。 「あなたは今までこれといった苦労はしてないね」  亜子はどきっとした。 「そのことにコンプレックスをもっている」 「…………」 「苦労はすればいいってものじゃない」 「そうでしょうか」 「満ち足りた中で美しい心を持ち続けるのも結構難しい」  亜子は返事ができないでいた。三千代の言うことが難しく感じられ、どう答えたらいいのかわからない。わからないまま返事をすると、それも見抜かれてしまうに違いない。  三千代は笑顔で言った。 「あなたはよく来た。まずそこがえらい。ひとりで四時間半も新幹線で。かわいそうに、うそがあだになったな」 「え?」 「飛行機が苦手なんだって? それ、うそだろ? あなたは百瀬くんと少しでも長くふたりきりでいたかった」 「…………」 「あなたはここで靴が作りたかったんじゃない。百瀬くんと旅がしたかった。なのにあのあんぽんたん、ドタキャンするなんてな」  亜子は上を見ようと思ったが、間に合わず、涙を指でぬぐった。  三千代は立ち上がって亜子の肩を叩いた。 「よく来た、よく来た」  店の二階が三千代の居住スペースになっていた。広々とした畳敷《たたみじ》きの和室だ。  女ふたりはパジャマ姿で、ビールとつまみを前に、すっかりくつろいでいる。白い髪をおろした三千代を見て、亜子は昔読んだ『小公女』の挿絵を思い出す。  三千代はゆでた鶏のささみを小さくちぎって小鉢《こばち》に入れると、部屋のはじに置いた。なにかのおまじないだろうか。酒は強くないようで、グラスに半分飲んだだけで、もう頬が赤い。「手酌《てじゃく》でいこう」と言いながら、亜子のグラスにはどんどん注ぐ。  外は真っ暗だ。山鳩の鳴き声が規則正しく聞こえて来る。窓は少し開けてあり、気持ちの良い風が入ってくる。  亜子はつけものをかみしめた。 「これ、おいしい!」 「いぶりがっこと言ってな、ここの名産だ」 「三千代さんはもともとこちらのご出身なんですか?」 「いいや」 「お知り合いがこちらに?」  三千代は顔を横に振った。 「不安じゃなかったんですか」 「そりゃあ、不安さ。でも、慣れた場所で慣れた人間といたって、不安だろ?」  亜子はうなずく。たしかにそうだ。  その時、窓の隙間からぬっと、大きな猫が入って来た。音もたてずに床に降りると、小鉢のささみを食べ始めた。 「ずいぶん大きなキジトラですね。名前はなんというんですか」 「名無しの権兵衛《ごんべい》だ」 「野良猫《のらねこ》ですか」 「ヤマネコかもな。おなかに子がいるらしい」  亜子はしみじみと思った。ここは東京ではないのだと。都会で猫が妊娠するとひと騒動だ。処分するか、育てるか、里親を探すか。なんらかの決断を迫られる。ここでは命はふつうに生まれ、生命力あるものだけが生き残り、その土地に合った生態系がほどよく維持されているのだろう。 「今朝、百瀬くんはあやまらなかっただろう?」と三千代は言った。 「はい、笑ってました」 「なぜだと思う?」 「んー……」  亜子は一生懸命考えたが、今日ばかりは百瀬の気持ちがわからない。  三千代はにやりとした。 「悪いことをしたと思ってないんだよ」 「そう! そんな顔でした。でも、なぜ」 「自分と一緒にいたい。そんな人間がいるという実感がないからさ」 「…………」 「施設で育ったんだってな。母親に捨てられたんだ。自分の存在に自信がない。そこを乗り越えるのはなかなか難しい」 「…………」 「おそらくこういうことはこれからもある。今日のような思いを二度と味わいたくなかったら、はっきり伝えたほうがいい。今回はがっかりした、頭に来たと」  亜子は考えた。百瀬に正直な思いを伝えられるだろうか? 「もしくは」と三千代は言った。「あなたが百瀬太郎に慣れることだ」  亜子は思い詰めたようにしばらく黙っていた。窓から闇が見える。深い闇だ。ずいぶん遠くまで来てしまった。たったひとりで。  心細いはずなのに、そうでもない。ふわふわとした夢の中にいるような、不思議な感覚だ。  亜子は大きく息を吸った。そして小さいがはっきりとした声で言った。 「百瀬さんはおかあさんに捨てられたんじゃありません」 「なんだって?」 「息子のためによかれと思って手放したのだと百瀬さんは言ってました」  三千代は亜子の顔をまじまじと見た。頬が桃のようにふっくらとピンク色だ。おとなしそうな顔立ちだが、意志を持っている。  亜子は三千代の目を見てきっぱりと言った。 「だからわたしもそう信じています」  すると三千代は「はははははは」と高らかに笑った。気持ちがいいほどの大声だ。キジトラはびくっとして一瞬こちらを見たが、すぐに気をとり直し、再びささみを食べ始めた。  笑い過ぎて涙をぬぐいながら、三千代は言った。 「大福さん、あなた、どんな靴が欲しい?」  亜子はゆっくりと考えながら言った。 「早足で歩けて、走ったりしても痛くなくて、雨の日もだいじょうぶで、何年も保って、どこへでも履いて行ける……目立たない靴がいいです」  すると三千代は言った。 「百瀬太郎を追いかける靴ということか」  三千代はおかしそうに笑った。  朝、うるさいほどの鳥のさえずりで目覚めると、もう三千代は二階におらず、昨夜食べ散らかしたテーブルも綺麗に片付いている。亜子はパジャマのままあわてて店に降りた。  三千代はすでに作業着に着替え、モップで床を掃除している。亜子を見ると「おはよう」と声をかけてきた。 「おはようございます」  亜子はちぢこまった。昨日から失敗ばかりだ。初対面の挨拶もろくにできず、寝坊までしてしまった。親戚への挨拶回りのつもりで来たのに、まるで子どものようなふるまいだ。  だけどなぜだろう、ここではすべてが許されているような、やわらかい空気を感じる。この店も、三千代も、職人の桜井も、木村も田村も、まるで絵本の中の登場人物のように素朴《そぼく》であたたかく、浮世離《うきよばな》れしている。  三千代はてまねきした。亜子は呼ばれるままに階段を降り、椅子に座った。一夜明け、足はむくみが取れてほっそりとしている。  ふたたび三千代は丁寧に採寸すると、立ち上がって言った。 「ぴったりの靴がある」  そしてショーウインドーの赤い靴を持って来て、「履いてごらん」と言った。  靴は朝日をあびて、深みを増した赤となり、輝きを放っている。  亜子はシンデレラのガラスの靴を思い出した。この靴に足が合うか、試されている気がする。なにせ美しすぎる赤だ。ヒールはそう高くはないが、華奢《きゃしゃ》で女らしいデザインである。  シンプルなのに華やか。このような靴を履いたことがない。  亜子はおそるおそる足を入れた。すると不思議。天使の両手に包まれたような感覚を覚える。立ち上がる。すると気持ちがおおらかになり、ぐんぐん自信がわいてくる。世界が自分に微笑んでいるような気がする。 「すごい」感嘆のためいきがもれた。  三千代は言った。 「これはわたしの理想を詰め込んだ最高傑作だ。ずっと飾っておきたかったが、こんなにぴったりの人間が現れたんじゃ、しかたない」  亜子はなにも言えない。 「あなたの希望の靴とは違うが、わたしはこの靴をあなたに履いてもらいたい」  三千代は亜子の肩に手をおいた。 「この靴で走っている男を追いかけるのは無理だ。少しは百瀬くんに歩調を合わせてもらいなさい」 「百瀬さんに……合わせてもらう」 「もっと自信をもちなさい。あなたには特別な才能があるんだから」  才能。亜子は自分とかけはなれた言葉にたじろいた。平凡な良い子。それが小さい頃から周囲に言われ続けてきた言葉だったから。 「めったにいないお嬢さんだよ。人を幸せにする才能を持っている」  そう言って三千代はにやりと笑った。 「百瀬くんは、ラッキーだ」  亜子は三千代の目を見た。すべてを見通しているような瞳だ。 「いいかい? これは世界でたったひとつのあなたの靴だ。百瀬くん曰く、エンゲージシューズとやらだよ」  亜子は足元を見た。纎細かつ強靭《きょうじん》な赤い靴。  どこまでも走って行けそうな気がした。 [#改ページ] [#見出し]   第四章 ワトソンの指輪  ジョン・ワトソンはシャーロックーホームズより偉大なるヒーローだという説がある。  体をはって調査に協力し、時にはおとりとなってホームズの推理に貢献《こうけん》したし、記録係として相棒の活躍を巧みな文章で残した。ワトソンがいたからこそ、ホームズが英雄《えいゆう》足《た》り得たのだ。  野呂だってそれくらいの意気込みはある。百瀬のためなら体のひとつやふたつ、喜んで投げ出す覚悟だ。  とはいえ、こういうシチュエーションには慣れてない。  若い女性と並んで高速で歩くというシチュエーションだ。女性は鼻息荒い黒い犬に引っ張られており、走るように歩いているというか、ほとんど走っている。 「ドドはいつもこうなんです。もうじきドッグランに着きますから、そこで話しましょう」  ペットシッターの今井静香は言った。若いから、走りながらもきちんと会話ができる。野呂は齢《よわい》六十一、そうもいかない。「はいはい」と言いたいところを「ふうふう」となり、ついて行くのが精一杯だ。  会員制の高級ドッグラン施設『ドンドンドッグ』に着いた。  周囲には若い桜の木が植えられており、花が咲きかけている。芝生が青々として気持ちの良い広場には、犬たちが楽しそうに走り回っている。  野呂は猫より犬のほうがよほど好きである。なにせ機嫌がわかる。猫と言ったらもう、うれしいのか悲しいのかわからない。百瀬はしっぽとひげでわかると言うが、野呂にはさっぱりだ。  クラブハウスにはティーラウンジがあり、窓越しにラン全体を見渡せる。ドンドンドッグは入会金と年会費が高額らしい。そのわりにラウンジにいる人間たちからはセレブの匂いがしない。この中の何パーセントが飼い主だろう? 今井静香のようなアルバイトがほとんどのようだ。  オレンジジュースを飲みながら、今井静香は野呂の名刺を見つめている。   百瀬法律事務所  野呂法男 「おじさん、弁護士なんだ。奥さん楽でいいなあ」  野呂は何も言わない。弁護士ですかと聞かれれば、いいえ秘書ですと答えるが、勝手に誤解されているぶんには否定する必要もない。そしてもうひとつ、弁護士がそう実入りがいいわけではないことも、あえて伝える必要はないだろう。 「あなたはベテランだそうですね。いつからペットシッターのアルバイトを始めたんですか?」 「えーと、十年前から」  野呂は驚いた。どう見たって彼女は二十歳《はたち》かそこらだ。 「八歳の時からやってます」 「八歳!」 「うち、アパートなんで、動物飼えなかったんですよ。ペットを飼っているうちがうらやましくて、紙に『ペットのめんどうみます』と書いて、近所にポスティングしたら、どんどん仕事がきて」 「仕事がきますか、八歳で」 「子どもだったから逆に信用されたんですよ。おこづかい程度のおだちんで、犬の散歩をするのが初仕事でした。お年寄りは散歩がきついですからね。重宝《ちょうほう》がられましたよ」 「なるほど」 「十年も現場を経験すれば、それなりに知識が身に付きます。評判も良くて、今ではお客が絶えません」 「あの黒い犬の飼い主もお年寄りですか?」 「ドドの飼い主は若者です。ひきこもりなんですよ」 「珍しい犬ですよね。ラブラドールにしては細いし」 「ドドはドーベルマンです」 「え?」  野呂は違うと思った。 『ドーベルマンギャング』というアメリカ映画がある。猛犬ドーベルマンを使って銀行強盗をするという漫画のような設定の痛快アクション映画で、犬は耳が鋭く立っており、尻尾《しっぽ》が無く、黒い悪魔のような姿をしていた。 「ドドは耳が垂《た》れてるし、尻尾があるじゃないですか」 「おじさんなんにも知らないんですね。ドーベルマンは垂《た》れ耳《みみ》で尻尾があります。それが自然の姿なんですよ。立ち耳で尻尾無しは、人間が作ったスタイルです」 「スタイル?」 「子どものうちに耳と尻尾を切ってしまうんですよ」  野呂は血の気がひいた。 「かつてはドイツで軍用犬だったとかで、そう作られたらしいですけど、それがドーベルマンの記号になっちゃったんですよ。野蛮《やばん》でしょう? ヨーロッパではすでに禁止されてますよ。日本くらいじゃないですか、いまだに平気でパッツンしちゃうの」  野呂は自分の耳をさわった。血も通っているし、神経だってある。 「ドドの飼い主はそれをしなかったんですね」 「ひきこもりですけどね。まっとうです。こういう仕事していると、いろんな人を見ますけど、社会的地位のある人のほうが、変なこと平気でしますよ。無神経だから、人を押しのけてのし上がれるんでしょうね」  野呂はショックで次の質問が出て来ない。百瀬はペット訴訟にとりくむ間、いくどとなく寡黙《かもく》になるが、口にするのも辛い現状があるのだろう。  とうとう今井静香のほうから本題を切り出した。 「白川ルウルウのとこへは通ってませんよ。エサもトイレも自分でやるからもういいって言われました。あのひともそうとう変だったなあ」 「どういうこと?」 「だってあのひと、留守中だけでなく、自分が家にいるときも、わたしに猫の世話させてたんですよ。あまり猫にさわりたくないらしくて」 「さわれないのですか?」 「女優だからじゃないですか。ひっかかれて傷あとが残ると困るとか、衣装に毛がつくのが嫌とか。いろいろ都合があるんでしょうよ」 「なのになんで猫を飼ってるんですか」 「こっちが聞きたいですよ。あんなにほったらかしなのに、妊娠したら大騒ぎ」  今井静香はだんだん腹が立って来たらしく、怒り心頭に発したという口吻で、叫んだ。 「妊娠してからがたがた騒ぐくらいなら、はじめっからちゃんと避妊すれば良かったのよ!」  クラブハウスの人々は、凍り付いたように野呂と今井静香を見た。  野呂はあわてて「ペット[#「ペット」に傍点]の避妊手術は飼い主の責任ですからね!」とこれまた大声で叫んだ。  とたん、人々はほっとしたように、視線をはずした。やれやれ。  野呂は小さな声で尋ねた。 「妊娠しているのはたしかですか」 「はい。獣医さんが超音波で確認しましたから。わたしも見ました。複数おなかにいます。それにいつものベベっぽくなかったし」 「どういうふうに?」 「妊娠すると顔つきがかわるって、人間でもあるでしょう?」 「よくそう言いますね」 「違う顔してるんですよ。毛なみも大きさもそのまんまなんですけど、表情が違う」 「妊娠する可能性、心当たりはありませんか? 完全な密室だったそうですが」  今井静香は「密室妊娠?」と叫び、けらけらと笑い出した。 「もうやめちゃったから白状するけど、ベベは脱走したことがあります」 「え?」 「ベベは部屋から出られるんです。ドアに前足をひっかけて、体重をかけると、ドアが開くんです」 「じゃあ、密室ではないんですね」 「密室だと思っているのは白川ルウルウだけですよ。ろくに家にいないし、猫の習性だって知らないと思う。まあでも、ベベは外には出ません。すぐにつかまえて部屋にしまいますからね。リビングの絨毯に毛が付いたらまずいでしょう? 猫の毛ってなかなか取れないんですよ」 「白川さんは猫より絨毯のほうが大事なんですか?」 「何度も言いますけど、あのひと、猫にさわれないんですからね。エサはやれるけど、抱けないんですよ。なのに妙にベベに固執してて、よくわからない人です」  野呂は考えた。おかしなことには謎を解く手がかりがある。推理小説ではたいていそういうことになっている。白川ルウルウはなぜか好きでもない猫を飼っている。ここになんらかの鍵があるに違いない。しかしこれ以上の推測は難しい。ワトソンの限界だ。百瀬の頭脳が欲しい。  今井静香は思い出したように言った。 「そういえば一度、あせったことがありました。ベベが家の中のどこにもいなくって」 「それでどうしました」 「ドドの散歩の時間があるので、わたしは帰らなくちゃいけなくて、困っていたらミスター美波がやってきて」 「美容コンシェルジュの美波さんですね」 「ええ、彼はよく白川ルウルウの家に出入りしていて、その日も来てたんです」 「白川さんは女優さんだから美しさを保つのも仕事なんでしょうね」 「白川ルウルウは約束したのを忘れちゃうんで、まちぼうけが多かったですけどね。ミスター美波は怒りませんし、やさしいんです。ニキビに効くタブレットをくれたこともありますよ。困っている女性をほっておけないんですって」 「もてるでしょうね、ハンサムですし」 「やさしすぎる男ってそんなにもてませんよ」  野呂は百瀬を思い出し、なるほどと思った。 「あのときわたし、ベベを見失って半泣き状態で、家政婦さんに気付かれないように必死で探していたら、ミスター美波が自分に任せてくださいと言ってくれたんです。心配だったけど彼に任せてこっちへ来ました。すぐにミスター美波から電話があって、一階のソファの下で見つかったって」 「じゃあ、問題なかったわけですね」 「妊娠はわたしのせいじゃありません。白川さんにうらみをもった誰かの犯行じゃないかと思います」 「うらみ?」 「ときどき男の人が訪ねてきてました」 「どんな人ですか」 「どんなって、いろんな人ですよ。昔つきあったことがあるっていう男が何人も訪ねて来ました」 「何人も?」 「白川さんは記憶にないみたいで、会いもしません。インターホンで確認して、門から中に入れず、追い返してました」  これは新しい情報だ。謎を解く鍵になるかもしれない。野呂はメモをとる。 「白川さんが悪いんです。ぜんぶ稽古《けいこ》のつもりだったって言ってました。たとえば不倫する役がきたら、実生活でも不倫して、役どころの気持ちをつかむんですって。つきあった人のことは覚えてないみたい。あれでよくセリフが覚えられますよね」 「興味のないことは頭に入ってこない。それは天才によくある症状です」  野呂はボスの百瀬が依頼人の損益分岐点にばかり頭を働かせ、事務所の経営に全く興味を示さないので、いつも頭が痛い。 「シャーロック・ホームズは地動説を知らなかったくらいですからね」  野呂がそう言うと、今井静香は「地動説って?」ときょとんとした。ドーベルマンの歴史に詳しいが、地動説を知らないらしい。 「ベベの妊娠は、きっと過去の恋人の犯行ですよ。雄猫を連れて来て、ベベルームに放り込めば可能です」 「そこまで手の込んだ復讐をしますかね」 「恋愛のエネルギーって半端じゃないですよ。白川ルウルウはお稽古のつもりでも、相手は本気です。彼女を長年捜し続けていた人もいて、演技だったと知って、門の外で号泣してた人もいましたよ」  野呂は左手の薬指の指輪を見た。自分も過去に生涯をかけた恋愛をしたのを思い出す。一生このひとだと思える大切な恋だった。  今井静香はやめた気安さからか、どんどん話してくれる。 「そういえば訪ねてくる人は白川ルウルウのこと、みんな違う名前で呼んでましたよ。田中《たなか》さんとか、山本《やまもと》さんとか。偽名でつきあってたらしくって。これって恋愛|詐欺《さぎ》?」 「恋愛詐欺という罪名はありません。お金をまきあげるなどの実害があったら、詐欺罪を問えますが、そもそも恋愛には多少の嘘《うそ》がつきものですからね」 「白川ルウルウ被害者の会」 「え? そんなものがあるんですか?」 「たとえばだけど、もしそんな会ができたら、弁護士が必要ですから、おじさん、仕事になりますよ。訪ねて来る元恋人たちに名刺をばらまけば、すぐに電話がかかってくる」  野呂は感心した。今井静香の半分くらい、ボスが儲けに貪欲《どんよく》であれば。  しっかりものの今井静香と別れたあと、ミスター美波に電話をしたが、地方へ出張に行っているらしく、会えそうにない。  そこで白川家を訪ねることにした。現場百回は犯罪捜査の鉄則だ。  白川ルウルウに対するうらみの犯行となると、愛猫の妊娠どころか、家屋の損壊、放火など、犯行はエスカレートしないとも限らない。元恋人が訪ねてきたら、一応名刺を渡しておこう。営業だ。  野呂ははりきっていた。気分はすっかりワトソンなのであった。      ○  百瀬は不動産屋を出ると、すぐに小松に電話した。 「予約金は今月末、口座に全額返金されます」  電話の向こうで小松は子どものように「やった」と叫んだ。婚約破棄され、大切なヘビまで失った男には、多少なりとも心の救いになったようだ。  賃貸《ちんたい》といえど豪華なマンションで、予約金として前払いした家賃一ヵ月分は高額である。百瀬は亜子との新居に月額この半分も払えそうにない。  百瀬ははりきって「これからヘビの件でまこと動物病院に行きます」と言った。すると小松は「ごくろうさま」とあっさり電話を切った。  ごくろうさま?  百瀬は足を止め、上を見る。青空に白い雲。雲の形は靴に似ている。秋田も晴れているといいが。あの駅弁はおいしかっただろうか。女性が好きそうなちょっとずつ[#「ちょっとずつ」に傍点]系を選んでみたのだが。足りたかどうか、心配だ。  いや、今は仕事に集中すべきだ。  前頭葉に空気を送り、考える。  たまにいるのだ。勢いだけの依頼人。依頼したとたん、その問題に関心がなくなってしまう。まるでひとごとみたいに「ごくろうさん」と言ったりする。  以前野呂がこう言った。 「金が余っている人間にとって、着手金は手切れ金なんですよ。めんどうな問題と手を切って、せいせいするための金です。あとのことは、どうでもいい」  そのとき百瀬は思った。依頼人がせいせいするならそれでいいと。  しかし今回は違う。問題はヘビだ。小松はヘビを取り戻したいのではなく、まことに一矢報いたいだけなのかもしれない。だとしたら、依頼を額面通りに受け取って、ヘビを取り戻してしまったら、かえってまずいことになるかもしれない。慎重にことを運ぼう。  電車を乗り継ぎ、目的地に着いた。  世田谷の高級住宅街の一画、三階建ての白いビルの前に立つ。ここに来るのは久しぶりだ。  クールでハイセンスな外観、土地柄に合った品のある動物病院である。今日あらためて見ると、派手すぎず、地味すぎず、スタイリッシュな中にあたたかみも感じられる良い建物だ。女ひとりでこのような城を築き、日々動物や人間と格闘しているのだと思うと、つくづく頭が下がる。  黄土色の壁に黄色いドアの賃貸オフィスで、猫を踏まないように仕事をこなす自分が、柳まことを守ろうとするだなんて、だいそれたことかもしれない。  ドアには往診中とふだがさがっている。アポはとってある。呼び鈴を押す。応答なしだ。急患でもあったのだろうか。  いきなりドアが開き、ぬっと、がたいのいい男が現れた。  目をみはるほどの二枚目だ。妙に記憶にひっかかる。ハリウッドスターの誰かに似ているのか? トムークルーズ? ブラッド・ピット? いや、違う。  そうだ、金城武! そんな感じだ。  顔は超一流だが、人柄は素朴なようで、ひとなつっこく百瀬を指差すと、「ええと、ま、ま、ま、ま」とつぶやく。 「百瀬と申します」 「百瀬。そうか、百瀬だ。ま行は当たった。えっと、えーっと」 「弁護士の百瀬です」 「そうそれ。そういう人が来るって聞いてます。まことさん、今、おなかこわした犬のところへ行ってるんで、そういう人が来たら、待っててもらえって言われました」  男はどうぞと言って、さっさと三階へ上がって行く。男の言葉には微妙なアクセントがあり、木曾あたりの出身ではないかと思う。  まことはいつから人を雇ったのだろう? スタッフは二人いるが、いずれも女性で、百瀬と面識がある。往診がメインなので、人手は足りているとまことは言っていた。  三階の入院施設に入ると、椅子を勧められ、座った。そのとき思い出した。たしかまことは「四国まで届け物があって、運転手を雇った」と言っていた。この男はその運転手ではないだろうか。  百瀬が椅子に座ると、男はさっさと下の階に降りようとした。 「失礼ですが」と声をかけてみる。男は振り返った。うーむ。ほれぼれするほど良い顔だ。 「こちらにお勤めですか?」 「いいえ」 「違う。では、まこと先生のお友だちですか?」 「いいえ」  友だちではない。ではなにものだ? 「ネコが怪我をしたんです」と男は言った。  百瀬はあわてて立ち上がった。 「失礼しました。患者さんなんですね」 「ネコを診てもらったんだけど、金が払えなくて」 「動物は保険がきかないから、診療費高いですよね」 「貯金をおろせば払えるって言ったんだけど、まことさん、待ってくれるっていうんで、働いて返すつもりです」 「ここでアルバイトをなさるんですか」 「いや、俺、トラック運転手なんで、次の仕事が決まったら、働いて返します」 「運転手? では四国へ何か運びましたか?」 「黄色いヘビを運びました」 「ビルマニシキヘビですね!」 「ビル……かどうかは知らないけど、黄色いヘビでした」 「その黄色いヘビをどこへ運びました? 個人のおうちですか?」 「動物園です」 「そうですか」  まことは手堅い里親を見つけたのだ。ヘビにとってはおそらく現状維持がベストだろう。  男は言った。 「ヘビ、人気者になったって聞きました。名前も決まったらしいです」 「へえ、どんな名前ですか?」  すると男は黙った。名前が思い出せないようだ。 「りゅう、みたいな名前です」 「なるほどヘビだから竜。ところであなたの猫は?」  百瀬はケージを眺めたが、いるのはミニチュアダックスとホーランドロップという垂れ耳うさぎだけだ。 「ネコは今まことさんの部屋にいるんです。あのドアの向こうです。見せてやりたいけど、勝手に部屋に入ってはいけないんで」 「あなたの猫が、まこと先生の部屋に?」 「ネコの怪我は治ったのですが、俺、今、家がないんで、引き取れなくて。しばらく預かってもらってるんです」  百瀬は驚いた。なにがあってもペットは自分で引き取らない。それがまことの主義だからだ。気軽に引き取る百瀬を「ミスター浮世離れ」と鼻で笑っていたではないか。  その猫は特別待遇らしい。いや、この男が特別なのかもしれない。 「その猫を今までご自宅で飼っていたんですか」 「いいえ、俺、猫なんか飼ったことないです。そいつは野良猫です」 「野良?」 「怪我したんで、ここに連れて来て、それから俺が飼い主になったんです」  百瀬は上を見ずとも事情はのみこめた。この男は優しい人間なのだ。まことが特別扱いするのもわかる気がした。 「その猫のお名前は?」 「ネコです」 「ネコ?」 「ネコという名前の猫です」  そのとき、「待たせたな!」といつもの大声でまことが入って来た。診療用の鞄と、重そうな白いビニール袋をぶらさげ、両方を床にどすっと置いた。 「おかえりなさい」と男二人は同時に言った。 「あーっ、くたびれた」  まことは入院スペース内にある大型冷蔵庫からビールを取り出して、飲んだ。冷蔵庫には実験中のシャーレや試験管が並び、薬品類や培養《ばいよう》中の菌[#「菌」に傍点]も並んでいるが、そこに人間用の飲料を置くことになんら躊躇はないようだ。  百瀬があきれたように見ていると、まことは胸をはった。 「言っておくが、これ、ノンアルコールだからな。急患発生率は二十四時間まんべんなくだ。もう何年もアルコールは飲んでない」  百瀬は驚いた。以前、まことはビールを飲みながら、百瀬を「男性偏差値最低ランク」と言い切った。アルコールのせいだと我慢して聞き流したが、正気で言ったのだ。  失礼千万だ! ひとこと言い返したいが、二年七ヵ月前のたった一回の発言を当人が覚えているとは思えない。まことのことだ。忘却率九十九パーセント、言ったことを覚えているわけがない。  許そう。  百瀬は自分と相手の記憶力の差に、いつもこうして折り合いをつけている。  男性偏差値が高そうな男が言った。 「まことさん、じゃ、俺、行って来ます」 「留守番ありがとう。がんばってね」  男は出て行った。  まことは百瀬の目の前に座って、黙ってノンアルコールビールを飲んでいる。 「今のひとは?」と百瀬が問いかけると、まことは質問を遮った。 「密室猫妊娠事件でしょ? 車が戻ったから、急患がなければ近々行ける」 「それはありがたいのですが、今日は別件です。小松さんをご存知ですよね」  まことはにやりと笑った。 「コショー専務か。へえ、あいつ、猫弁に持ち込んだんだ」 「小松さんはビルマニシキヘビをまこと動物病院に預けた[#「預けた」に傍点]とおっしゃっています。返して欲しいと」 「無理だ」と言ってまことは立ち上がり、奥のラックをごそごそやって、戻ってくると、テーブルの上にボイスレコーダーを置き、再生ボタンを押した。 「こんどはマンションなんで。集合住宅だと許可がおりにくいんですねえ」 「マンションでも飼えます。適切な飼育環境を整え、自治体に申請しましょう」 「でもそのマンションの規約ではだめなんです。管理会社はそう言ってます」 「ヘビがいるのに、なぜそのようなマンションを選んだのですか」 「わたしが選んだわけではありません。婚約者が選んだのです」 「ご婚約おめでとうございます。彼女があなたを愛しているのでしたら、ヘビの一匹や二匹、受け入れてくれるんじゃありませんか」 「まこと先生、やきもちですか?」 「要らないなら、引き取ります」 「プレゼントします。あなたの美しさに敬意を表して」  そこで音声は切れた。  まことは言った。 「証拠になるよね?」 「じゅうぶんです。いつもこうして録音しているんですか」 「念のためだ。女ひとりで商売やってる。いろいろあるんだよ」  百瀬はまことが女性であることに、今はじめて気付いたような気がした。  なるほど女という性を封印しないと、仕事がやりにくいのだろう。世田谷猫屋敷事件で知り合って十三年、まことの苦労に気付かなかった自分がなさけない。 「それで、コショー専務は裁判起こすって?」 「小松さんにそれほどのお気持ちはないと思います。この音声をもとに勝ち目はないと説得します。これコピーさせていただけますか?」 「いいよ、あげる」 「まこと先生、わたしは小松さんの代理人ですよ」 「だいじょうぶ。信用してるから」 「…………」 「心配するな。わたしはあなたのようなお人好しじゃない。ほかの弁護士だったら渡さないし、そうさな、裁判を起こさせて、法廷でこれを証拠として披露し、逆に偽証罪とか、そうだ名誉|毀損《きそん》で訴えてやる。それで最新式の電気メスくらい買えるだろうさ」 「…………」 「でも、めんどうなことはごめんだ。裁判は時間のムダ。そんなことしている間に救える命がいくつもある」  まことは立ち上がって、ケージでもぞもぞしているミニチュアダックスを見つめた。  白衣の背中はまっすぐだ。そのまっすぐさが敵を作る。誠心誠意治療したペットの飼い主から訴えられることもある。百瀬は小松の依頼を迷わず引き受けたが、そのことがまことを多少なりとも傷つけたかもしれないと、ふと心配になった。  まことは背を向けたまま言った。 「猫弁、今回はあなたが引き受けてくれて助かった。感謝してるよ」  百瀬はほっとした。説明しなくても理解してくれている。ありがたい。こういうのをツーカーの仲というのだろう。男性偏差値うんぬんの毒舌《どくぜつ》には目をつぶろう。 「ビルマニシキヘビは動物園で引き受けてくれたそうですね」 「いい感じにおさまった。名前はちょっと変だけどね」 「りゅう、とか?」 「あはは、あいつ、やっぱり覚えられないんだ。さっきの男、土田くんっていうんだけど、人の名前を覚えるのか苦手みたいで」 「でもまこと先生の名前は覚えてましたよ」 「まるきり馬鹿というわけではない。全国の道路には詳しくて、地図がびしっと頭に入ってるようだ。方向感覚もすごい。天才肌で、興味があることしか頭に入らないのかも」 「土田さんとおっしゃるんですね」 「坂本龍一《さかもとりゅういち》だ」 「え?」 「ビルマニシキヘビの名前、坂本龍一になったんだ」 「それはまた……なぜ?」 「来園者にヘビの名前を募集したら、七十五も集まったんだって。そうしたらふつう、その中から十くらいに絞って、来園者に投票でもさせるだろう? でも園長は、せっかく応募してくれたのに、園で選別したり、票で優劣を決めたり、ましてやそれを公表したら、一生懸命名前を考えてくれたお客様に失礼だって言うんだ」 「なんだかいいお話ですね」 「そうか? だからって、チンパンジーに選ばせるかな」 「え?」 「ビルマニシキヘビ命名式というイベントを企画して、入場無料でお客を集めたそうだ。応募された名前が書かれたバナナをテーブルに置いて、みんなの前でチンパンジーに選ばせたらしい」 「七十五のバナナ!」  百瀬はジャングルを思い浮かべた。 「かなりもりあがったらしいぞ! 四国のテレビで放送されたらしい」 「それで……」 「チンパンジーが坂本龍一と書かれたバナナを選んだらしい」 「七十四のバナナは」 「来園者に配ったらしい」 「坂本龍一……」 「黄色いヘビだから。黄色を彷彿《ほうふつ》とさせる名前が多かったらしい」 「イエロー・マジック・オーケストラ?」 「そう、YMOだ。その名前を考えたのはおそらく五十代の女性だな」 「このことを知ったら坂本龍一さんはどう思いますかね」 「一応、坂本さんの事務所宛にお手紙を送ったらしい。気になるようでしたら坂本リューイチ[#「リューイチ」に傍点]に変えますと打診したけど、返事はないらしい」 「お忙しい方でしょうから読んでないかもしれませんね」 「法的にはどう?」 「ヘビの名前は商標ではありませんし、全国に坂本龍一さんは何人かいらっしゃるでしょうし、人格権、商標権ともに問題ないでしょう」 「めんどうなことになったら、よろしく頼む」 「善処します」  まことが「いくつも持っているから」というのでボイスレコーダーごと拝借すると、百瀬は立ち上がった。そのとき、にゃあと猫の嗚き声が聞こえた。 「おっと、ごはんの時間だ」  まことはプライベートルームのドアを開けた。すると中から大型の灰色猫が現れた。  見たことのないデザインで、毛はざん切りになっており、長毛種なのか短毛種なのかわからない。愛くるしい中にも気品がある。 「土田さんの猫ですか」 「そう、ネコという名前の猫」  まことはしゃがんでネコをなでた。ごろごろとのどを鳴らしている。 「土田くんに渡す前に避妊手術をしたいんだけど、まだ言い出せないでいる」  百瀬はわかるような気がした。ペットとして猫を飼う場合、避妊手術をするか否かは避けて通れない問題だ。むごい殺処分を避けるための良心的な手術ではあるが、それもこれもすべて人間の都合に相違ない。土田のような純朴な人間は、本質を見抜いて躊躇するかもしれない。  まことは笑った。 「深刻な顔しないでよ。金のことだよ。手術費。土田くん、金がないんだ。今、就職活動してるんだけど、次が見つかるかな」 「たいへんですね」 「田舎にお金を送っているらしい」 「ご両親に?」 「おばあちゃん。母親は実家であいつを生んで、すぐに出て行ったらしいんだ。息子に妙な名前を付けて、それっきりらしい。無責任な母親だと思わない?」  そこまで話して、まことはまずいことを言ったと気付き、話を変えた。 「母親が付けた名前、当ててみる?」 「そうですねえ、インタナショナル系ですか? トムとかケントとか」 「近い。ハンス。帆船の帆に鳥の巣」 「帆巣! ロマンチックなおかあさんですね」 「一度聞いたら記憶に残る。自己顕示欲《じこけんじよく》の固まりみたいな女かも。生みっぱなしだなんて、息子に会いたくないのかしら?」  またまずいことを言ったと思ったが、遅かった。百瀬は深刻な顔で一点を見つめている。傷ついたか? いや、違う。その視線の先は……。 「ネコ! こら!」とまことは叫んだ。  ネコは白いビニール袋に首をつっこんでいる。まことは重たいネコを抱え、よいしょよいしょと運び、「こっちがあんたのごはんだよ」と言いながら、ドライフードを与えた。  百瀬は白いビニール袋をのぞいた。  まことは言った。 「おなかをこわした犬を治療したら、お礼にって、野菜をもらったんだ。このあたりは庭で家庭菜園やってるうちが多くて、無農薬の野菜をよくもらう。坪単価二百万円の土地でとれた野菜だ」  白いビニール袋には薄緑色の葉がついたオレンジ色のにんじんがどっさり入っていた。      ○  まこと動物病院に行った帰りのことである。  百瀬は駅のホームで電車を待っていた。すると「密室妊娠だって」「やっばーい」という会話が耳に入った。見ると、制服を着た女子高生が三人、並んで歩いて行く。  百瀬は走って行き、背後から声をかけた。 「密室妊娠って、その言葉、どこで聞いたのですか?」  女子高生三人は立ち止まり、振り返って百瀬を見た。  百瀬は念をおした。 「さっき、密室妊娠っておっしゃいましたよね」  すると女子高生のひとりが「きもい」とささやいた。  ぐさりときた。百瀬も男である。正面切って若い女性から「きもい」と言われ、胸に短刀を突き立てられたくらいの痛みを覚えた。が、代理人の責任として、聞き出さねばならない。 「密室妊娠という文字をどこかで見たのですか?」と再び問いかけると、女子高生三人は「きゃあっ」と叫び、走り去ってしまった。  百瀬はぼうぜんと見送るしかなかった。  駅員がしかつめらしい顔をして百瀬に近づき、「ちょっと」と声をかけた。ところが現在、百瀬は熱意をもって下を向いている。足元に落ちている新聞から目が離せない。  新聞には真っ赤な文字で、『大女優S、密室妊娠の謎』と書いてある。  駅員は「きみ」と言ったが、百瀬の耳には入らず、新聞を拾って読んだ。 『舞台女優Sは還暦にして妊娠が発覚。つわりで青ざめたSは梅干しを口にふくみながら記者の質問にこう答えた。「女優は天使にだって女王にだって魔女にだってなれるんです。密室で妊娠だなんて、そんなあたりまえのことするかしら?」』  百瀬は新聞の文字を凝視《ぎょうし》し、固まっている。しばらくすると、上を見上げた。  そのとき駅員が百瀬の腕をつかんだ。 「ちょっとこちらへ来てくれないか」  百瀬はやっと駅員に気付き、助かったという顔で、「すみませんが、ここを読んでみてくれませんか?」と新聞を差し出した。  駅員は百瀬が指差す囲み記事を読み、言った。 「これが、なにか?」 「わたしの読解力が足りないのでしょうか、意味がつかめないのですが」  駅員はくすりと笑った。 「これ、意味なんてないですよ。見出しで惹き付けて買わせようとしているだけで、内容なんて、ないんですから」 「え? 内容がない?」 「密室妊娠。この言葉、想像力をかきたてられるでしょ。あなたこういうの読んだことないんですか? 日刊まひるのスキャンダル。おふざけ満載のゴシップ紙ですよ。ほら!」  駅員は新聞を裏返して見せた。  百瀬は絶句した。  女性の裸のイラストがでかでかと載っているではないか!  ピカソやルソーが描く女性の裸体とは一線を画した、というか、ぜんぜん違う、女性の裸の絵だ!  百瀬は青ざめた。このようなものが昼間の駅に落ちているなんて。しかも拾って、読んでしまった。さっきの「きもい」と合わせて短刀ふたつ。ダブルショックだ。  駅員は百瀬の様子を見て、変質者ではないと判断。「ほら、電車が来ますよ。足元に気をつけて」と気遣った。  百瀬は電車の中で、心臓のときどきを鎮めた。そして冷静に考えた。密室妊娠という言葉がどこで漏れたのだろう?  野呂に調査を依頼したが、聞き込みは人に聞かれない場所でという指示はしなかった。人のいる場所で大声で話せば、個人情報は漏れる。依頼人は女優だから、もっと神経を使うべきであった。すべて自分の責任だ。  白川ルウルウに謝ろう。今日は舞台の稽古日と聞いている。  乗り換えて下北沢にある稽古場へと向かった。古い小さなビルの三階に劇団の稽古場がある。白川ルウルウは劇団員ではなく、次の公演で客員として参加する。その間は劇団の稽古場へ通うと聞いていた。  すぐには会えず、一時間半待った。休憩時間になると、白川ルウルウは踊り場に現れた。黒いTシャツに濃いグレーのスパッツを穿き、髪はポニーテイルだ。  タオルで汗を拭きながら、白川ルウルウは言った。 「ああ、なにか来てたわね、どこかの記者が。早いわね。もう記事になったの」 「新聞社に問い合わせましたが、のらりくらりとかわされて、情報の出所はわかりませんでした。わたしどもの事務所で調査のため聞き込みをしています。そこで漏れたのかもしれません。ご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ありません」  白川ルウルウは笑った。 「いいのよ、全然。こういう仕事をしていると、プライバシーはなくなるの。あれはね、しつこいから適当にしゃべってあげたのよ。そのかわり写真は撮らせなかった」 「いいんですか? あんなふうに」 「アメリカに比べればかわいいものよ、日本のマスコミなんて。ふふっ」  白川ルウルウは毅然としている。かけらも傷ついてないようだ。 「先生、わたくしはね、うわさなんてどうでもいいんです。幸か不幸か、世界のどこにも、聞かれちゃまずい人間なんていやしない。家族も捨てました。悪女でも魔性でも還暦で妊娠してもかまわないんです」  白川ルウルウは胸をはって言った。 「女優である以外、どうでもいいんです」  百瀬は圧倒された。白川ルウルウの言葉には小さな抑揚があり、これはきっと、出身地の方言だ。だから今、白川ルウルウは素なのだ。 「知ってます? 本物の天才って、さっきまで雑談していたのに、舞台に立ったとたん、役になりきるんです。そういう女優を何人も見てきました。わたくしはちがうのです。わたくしがもっているのは努力を続ける才能だけ」 「白川さん」 「舞台でできることに限界を感じています。死ぬ思いでやってきたからこそわかるのです。これ以上努力しても、ここ止まりと判断しました。今後はなんとか映像界に入り込み、あと二十年、いや、三十年は女優を続けたいのです。そのためには」 「ベベさんが妊娠しては困るんですね」 「よくわかってらっしゃる」  白川ルウルウは百瀬をじっと見た。いどむような目だ。戦っている人間の証明だ。 「稽古に戻ります」と言って、白川ルウルウは百瀬に背を向け、歩いて行く。  百瀬はこのひとを助けたいと思った。 「必ず真相を解明します」  すると白川ルウルウは振り返り、こくんとうなずいて、去って行った。  百瀬は狹い階段を降りながら、頭の中をせわしく動かしていた。いくつかのピースが、竜巻に巻き込まれたようにくるくるふわふわと舞っている。  予感はあった。  彼女に渡せる答えはひとつではないという予感だ。      ○  翌日、百瀬は電車を乗り継ぎ、私鉄沿線にある東京のはずれの街に向かった。  移動中心現在抱えている案件が頭を離れない。密室猫妊娠事件と黄色いビルマニシキヘビ。さらには「お祭りでモンシロチョウの幼虫を買ったら、蛾《が》になった」案件と、「うちの猫がお隣のさわらの粕漬《かすづけ》けを盗み食いしたところ、骨で口内が傷ついたため、お隣を訴えたい」という依頼が後に控えている。プライベートでは婚約者との結婚進展問題も抱えている。  百瀬は忙しい。しかし本日はどうしても行かねばならぬ場所がある。  こぢんまりとした駅である。この駅にはなんども降り立ったが、来るたびに違う顔をする。今日はなんだかよそよそしい顔だ。  駅から住宅街を通ると近道だが、遠回りをする。  一級河川があり、その土手を歩く。川風が心地良い。桜は咲きかけているが、まだ二分咲きといったところだ。  ここの風景は変わらない。  三十三年前、母と手をつないで歩いた道である。その時は、母と手をつないでそのまま帰る[#「帰る」に傍点]と思っていた。見知らぬ風景で、百瀬にとっては旅であった。  今もまだ旅の途中という感覚がある。  当時はアメリカに住んでおり、七歳の誕生日に母は言った。 「これからは日本で学びなさい」  ぴんとこなかった。日本は遠い異国だし、記憶にない国だ。母はよく冗談を言うので、誕生日のイベント旅行なんだと思うことにした。  飛行機は初めてではなかったが、あれほど長時間乗ったのは初めてで、髪の黒い自分らのような人間が大勢いる空港も珍しく、ここまでの道中も電車が珍しかった。  土手を歩いている途中で、母は足をとめて言った。 「いい? 太郎。万事休すのときは上を見なさい。そうすると脳がうしろにかたよって、頭蓋骨と前頭葉の間にすきまができる。そのすきまから新しいアイデアが浮かぶのよ」  バンジキュースってなんだろう?  ゼントーヨーってなんだろう?  質問はしなかった。母はいつも「辞書で引きなさい」というので、旅行から帰ったら調べようと思った。  いつのまにか母は上を向いていた。お手本を見せているのだと思った。  自分も見た。空は青かった。アメリカの青よりもすこしくすんだ青だ。雲はぽかっ、ぽかっとおどけたように浮かんでいた。  母はいつまでも空を見ていた。 「ママは今バンジキュースなのかな」と思い、おとなしく待った。たいくつなので母の手を見た。白くて細い指。右手にペンだこがある。指輪もマニキュアもしていない、子どものような手だ。  しばらくすると母は万事休すが済んだらしく、百瀬を見て微笑んだ。それから百瀬の手を引いて土手を降り、どのくらい歩いただろうか、家にしては大きく、学校にしては小さい建物が見えた。玄関の手前で立ち止まると、「おじいちゃんの形見よ」と言って、母は黒いふちの丸めがねを差し出した。 「おじいちゃん?」 「ママのおとうさん」  百瀬はこのとき、自分にはおとうさんがいないけど、母にはいるのだと知った。そしてそのことを母のために喜んだ。いないよりいるほうがいいに決まってる。  めがねをかけると、世界はぼやぼやになった。ぼやぼやの中で母の声が聞こえた。 「さよなら、太郎」  驚いた。  母がさよならというのを初めて聞いたから。いつも「いってきます」とか「バイバイ」だったから。  めがねをはずすと、もう母はいなかった。  走って探そうと思ったら、背後から声がした。 「太郎くん、こんにちは」  そのときと全く同じ声で、「太郎くん、こんにちは」と遠山健介《とおやまけんすけ》は言った。  青い鳥こども園の理事長だ。 「おひさしぶりです、遠山先生」  百瀬は頭を下げた。天気が良いのに、園庭に子どもたちの姿はない。 「今はみな室内が好きでね。ゲームばっかりしてる。電子ゲームは禁止にしてるんだけど、紙と鉛筆で同じ構造を作って、遊んでいるよ」  青い鳥こども園は園特有の匂いがする。園庭の樹木の匂い、砂の匂い、建物の木の匂い、カビの匂い、子どもの汗の匂い、それらが融合した匂いだ。  遠山は理事長室に百瀬を通し、珈琲をいれてくれた。  百瀬は椅子に座り、だまって珈琲ができあがるのを待った。子どもの頃は匂いをかぐだけで飲ませてもらえなかった。あこがれの匂いだ。  静かな時間が流れる。なつかしいようなさびしいような時間だ。 「ぼくは君のおとうさんじゃないよ」と遠山は言った。  百瀬は微笑む。 「会うたびにそれをおっしゃいますね」 「だって一番疑われる位置にいるからね」 「疑ったことはありませんよ」 「ぼくが凡人だから?」  遠山はそう言って珈琲を百瀬の前に置いた。 「正直な方だからです」と百瀬は言った。  遠山も椅子に座った。珈琲を飲みながら、しばらくどちらも話をしなかった。  百瀬は遠山の髪が白くなったことに気付いた。出会ってから三十三年。当時の遠山は今の自分より若かったのだ。初めて会う子どもを預かって、どういう気持ちでいたのだろう。  訴訟の末、引き取り手がなくなった猫を受け止めるとき、百瀬はいつも胸に鈍い痛みを覚える。そしてその痛みを猫には感じさせたくないと思う。遠山の胸も同じように何度となく傷ついているのかもしれない。 「君がここに来る時は、決まっておかあさんの手がかりをつかんだ時だよね。結果、いつもはずれている。今回はどう?」 「手がかりというほどではありません。ミドリという名前と、年齢がほぼ一致しているだけで」 「すぐに会って確かめればいいじゃないか。なぜいつも確かめる前にここに来る?」 「なんででしょう」 「怖いんだね」 「そうかもしれません」 「怖がることはない。その人はおかあさんじゃないよ」 「え?」 「彼女は君なんかにつかまりっこない。そんなミスは犯さない」 「…………」 「すごい人なんだよ翠ちゃんは。現れるときはむこうから、堂々とやってくるさ。なにかこう、ぼくらがびっくりするようなやり方で」  百瀬はくやしい気持ちになった。自分は母のことをなにひとつ知らない。七年間一緒に暮らしたのに、職業すら知らないのだ。あまりに身近な存在だったし、ずっと一緒だと思ってた。いきなり別れが来るなんて思わなかったから、母の顔もひととなりも、あいまいな記憶しかない。  土手で言われた言葉と、さよならの言葉。丸めがね。明確なのは、それだけだ。  百瀬はときどき思う。  自分はふってわい[#「ふってわい」に傍点]たように、この世に出現したのではないか。  よく人にやさしいねと言われるけれど、百瀬自身はそう思えない。感覚が麻痺した冷たい人間なのではないかと思う。  ねたんだりうらんだりしたことがない。お金や地位など失っても辛くない。旅の途中だからだろうか。悲しみも深く沈んで、よく見えない。  誰かに強く必要とされたことのない人間は、感情がオフになってしまうのだろう。 「君はいくつになった?」 「四十です」 「そうか。結婚は?」 「婚約者はいます」 「それはおめでとう!」  遠山は急に大声を出し、目をきらきらさせて立ち上がった。 「君はがんばった。弁護士として人と対峙し、こんどは家庭を持つ。君ほどの人間が周囲と馴染んで生活しているのを思うと」  遠山はいったん黙り、なにかを飲みこんだ。落ち着こうとするかのように、ぐるぐると歩き回り、立ち止まると、やっと話を続けた。 「最初にここに来たときは、たいへんだったよ。君の話を周囲が聴き取れなくて」 「すみません」 「頭の回転が速すぎるんだ。こっちには言葉が切れ切れに聞こえる。思考の飛躍がすごい。翠ちゃんと君の間ではちょうど良かったんだろうが、ぼくらにはぼくらなりの解釈のスピードがあるからね。でも君はすぐに周囲を理解し、歩み寄った」 「はあ」 「凡人のスピードに合わせて話せるようになった」  百瀬にその自覚はない。無理をしていないし、自然に生きている。 「小学校の授業を覗いたときは驚いた」 「先生、いついらしてたんですか?」 「問題を起こした児童がいて、呼び出されたんだ。帰りに君のクラスを覗いてみたら、テスト中なのに君の姿がない」 「はあ」 「君、教師にたのまれて職員室から教材を運んでた」 「はあ」 「ぼくは頭にきてね。担任につめよった。親のない子を差別するなと。すると担任は言った。百瀬くんはもうテストを提出してしまったと。いつも早く解いてしまい、時間が余って退屈そうだから、別のことをやってていいよと言ったら、なにかお手伝いしましょうと君が言ったんだって」 「そんなこともありました」 「君はまったく変な子どもだったよ。みな君のことが好きだったけど、とまどうことも多かった。それがこんなにもちゃんと社会と馴染んで暮らしているだなんて、感無量だ」 「馴染んでいるかどうか……」 「君と結婚してくれる女性が現れたんだから、自信をもっていいよ」  百瀬はシャツの胸ポケットから大福亜子の写真を出して、ほこらしげに見せた。  遠山は食い入るように見つめ、「意外だな。君は男まさりの女性の尻にしかれるタイプかと思ったが、ずいぶんとかわいらしいおじょうさんじゃないか」と言った。 「天使のような女性です」  言いながら百瀬は気付いた。今は失ってつらいものができたと。亜子とテヌーは失いたくない。もう旅の途中なんかじゃない。  遠山は写真を見て少し心配になったようだ。 「君、無事結婚できるかな」 「ええ。わたしも心配なんです」 「お相手のご両親は」 「父親が反対しています」 「まあ、そうだろうな。身寄りがないっていうのは、判断材料に困るんだろう」 「やはりいつか婚約解消されますかね」 「そのときは裁判でも起こせばいい」 「婚約期間でじゅうぶん夢を見られました。たとえ今後ふられたとしても、感謝こそすれ、責める気持ちなどありません。第一……」 「第一、なんだ?」 「あのご両親がいたから、彼女が生まれたわけで。ご両親に対して感謝の気持ちでいっぱいです」  遠山は微笑んだ。この園に来たときからずっと、一ミリのゆがみもなく、百瀬太郎は百瀬太郎であり続ける。この個性は強固で、なにごとも彼をゆがませることはできないのだ。強い男だ。それでいて、誰よりも繊細な心を持っている。  その心には無数の傷があるのを遠山は知っている。いくら強くても、いつか壊れてしまわないか。心配だ。 「まあ、楽観的に考えようよ。なんとか結婚までこぎつけることだ」  遠山は亜子の写真をしばらくながめていたが、やがて意を決したように言った。 「婚約のはなむけに、君にプレゼントがある」  遠山は亜子の写真を百瀬に返すと、窓に近づき、外を見た。 「ぼくは今まで君におかあさんのことを何ひとつ教えなかった」 「ご存知ないと伺っています」 「そうだ。ぼくは彼女のことを知らない。それは本当なんだが、知ってることも少しはある」  百瀬はどきっとした。 「おかあさんと約束したんだ。何も話さないと。ぼくはその約束をずっと守ってきたんだけど、少々腹が立ってきた」  遠山は振り返り、百瀬を見て言った。 「翠ちゃんにはあきれたよ。いくらなんでも、君をほうっておきすぎる」 「はあ」 「君はがんばった。だから、ぼくが知っていることは、今日全部話してしまう」 「先生!」 「翠ちゃんとは絶交だ!」  遠山は自分を鼓舞《こぶ》するようにきっぱりと言い、そのあと小さな声で「そもそも全然連絡ないんだから、絶交してるも同然だしね」と補足した。  そして遠山は百瀬太郎の母・百瀬翠について話し始めた。  ぼくの家はこの土地で代々写真館をやっていてね、隣のうちに百瀬一家が越して来たのは、ぼくが小学五年生のときだ。おとうさん、つまり君のおじいさんが引越の挨拶にひとりで見えてね、そのめがねをかけていたよ。そして翌日、うちのクラスに転校生がやってきた。  百瀬翠。君のおかあさんだよ。  彼女はおかっぱ頭で目が大きかった。利発すぎて、ぜんぜん、もてなかった。塾なんか行ってないのに、勉強がすいすいできる。一度大人を経験して子どもに戻ってきたのかなって思うほど、なんでも知ってるし、おまけに気が強かった。体育も優秀で、リレーの選手だった。そこは君、似なかったよね。  五年生にもなると、男子と女子はそう話したりしないから、彼女のことはあまり知らない。でもうちが隣だったから、近所の人の話から、少しは家庭の様子がわかった。  おかあさんはいないみたいで、おとうさんは公務員だったと思う。「お役人は浮き沈みがなくていいね」と近所の人が話しているのを聞いたことがある。  ぼくね、近所のやつらと野球をやってて、百瀬のうちにボールが入っちゃって、庭に取りに行ったことがあるんだ。窓ガラスが割れていて、おとうさんが立ってた。君のその丸めがねが鼻先にずれていてね、ボールを持ってた。  ぼくはふるえあがったよ。そういうとき、たいがい大人はがみがみ怒るからね。でも翠ちゃんのおとうさんは違った。ぼくにボールをやさしく放って、「ガラスのことはみんなに言わなくていいからね」と言ったんだ。そして、こう言った。 「翠とおなじクラスなんだって? おてんばだけど、そんなに強い子じゃないんだ。転校ばっかりで、ともだちもいない。翠をよろしくお願いしますね」  びっくりしたよ。大人が子どもに「よろしくお願いします」と言ったんだ。なんだかえらく人の良さそうな、それでいて高貴な感じがした。君はね、全体にそのひとに似てる。顔もたたずまいもおじいさんにそっくりだ。  それからね、百瀬一家は引っ越して行った。一年もいなかった。引っ越す前に、うちで写真を撮っていったよ。おとうさんと翠ちゃんしかいなかったから、やはり父子家庭だったようだ。  それから彼女のことは忘れてた。ぼくは写真館を継がずに、今の仕事を始めたんだけど、三十歳の時にいきなり翠ちゃんから電話があった。 「今、アメリカなんだけど、息子を引き取ってほしい」と言うんだ。ぼくがこういう仕事をしているとなぜ知っているのか不思議だったけど、あの写真をだいじに持っていて、うちの写真館を覚えていたんじゃないかと思う。  ぼくは翠ちゃんに義理はない。でも、翠ちゃんのおとうさんには借りがある。ガラスを割ったの、見逃してもらったし、「翠をよろしくお願いしますね」と言われて「はい」と返事しちゃったからね。  翠ちゃんに「いいよ」と言って、ここの場所を教えたら、一ヵ月後に君を連れて来た。  翠ちゃんは子どもの頃より少しだけ弱々しく見えた。愛するものができると、人間って弱くなる。最愛のものは、最大の弱みになるからね。  君は知らないだろうけど、初めて君がここに来た日、彼女、ここにひと晩怕まったんだよ。君が布団に入ったのを遠くから確認したあと、図書室でひと晩中座ってた。  ぼくは布団を用意すると言ったんだけど、「あの子も眠れないだろうから」と言って、ほおづえをついていた。  ぼくに、「太郎をよろしくお願いしますね」と言った。父親と全く同じ口調でね。  彼女の目に愛情があふれて、それはもう、悲しいくらいに君を愛していると感じたから、ぼくは何も聞かずに「まかせてくれ」と言ってしまった。  朝、君の寝顔を確認してから、彼女は出て行った。  遠山はそこまで話すと「これがすべてだ」と言った。  聞いている間、百瀬の胸はずっとどきどきしていた。  自分はふってわいたんじゃない。母は実在していたのだ。  するといきなり、ドドドドドとせわしなくドアを叩く音がして、男の子が入って来た。 「先生、今日はカレー?」 「ああ、そうだよ」 「じゃあ、新しい子が来るの?」 「そうだよ。新しい仲間が来る日は、いつもカレーだ」 「わーい」  男の子はドアも閉めずに出て行った。  百瀬はここで食べたカレーの味を思い出し、涙ぐみそうになり、天井を見上げた。  すると遠山も同じように天井を見た。  天井にはなつかしい染みがある。亀のような愛嬌のある形の染みで、それはよっつの目で見つめられ、心なしかはずかしそうだ。しばらくして、百瀬が先に口を開いた。 「先生は昔、弁護士になれば母を助けてあげられるよとおっしゃいましたよね」 「ああ、今もそう思っているよ」 「なぜですか」 「あれほど愛しているものを手放すのだから、よほどのことがあったに違いない。それがなんであるか、ぼくにはわからないけれど」 「…………」 「もしそれが解決したなら、君を迎えにくるはずだ。きっとなかなか難しい問題なんだ。いつか必ず、君はおかあさんを助けることになる」  カレーの匂いがしてきた。百瀬は席を立ち、図書室へ寄った。  小さな図書室だ。寄付された古本が並んでいる。当時のものとは入れ替わっているが、少年少女世界名作全集は常に置いてある。  百瀬は昔ここで本を読んだ。本の数が少ないから、友人と一緒に読まねばならないこともあり、ページをめくるスピードを調整しなければならなかった。アメリカの母の書斎にはありとあらゆる書物が詰まっており、それを三歳の頃から読んでいた百瀬にとって、ここにある本はあまりに読みやすく、パラパラとめくれば内容がつかめた。  動物図鑑がある。当時のより豪華だ。人気なのだろう、すり切れてぼろぼろなのを修復してある。手に取って猫科のページを開くと、トラやライオン、オオヤマネコは載っているが、普通のイエネコの写真はない。今度完璧な図鑑を探して持ってこよう。  子供用の椅子が五脚ある。  百瀬はそのひとつに座ってほおづえをついてみた。大人が座ると、猫背になる。ここで母はひと晩じゅう、何を考えていたのだろう。もし自分が「眠れない」と泣き叫べば、アメリカに連れ帰ってくれたのだろうか。  ほおづえをついても、答えは見えない。  遠山にあいさつし、帰ることにした。  青い鳥こども園を出るとき、門の前に白いバンが停まった。福祉施設の車で、中から職員らしい女性と、ランドセルを背負った女の子が降りて来た。  女の子はきょときょととあたりを見回しており、百瀬と目が合った。  百瀬は女の子の不安が手に取るようにわかる。前頭葉のおまじないを教えようかしらと思ったが、口から出たのは「カレー好き?」であった。  女の子はうなずいた。 「ここのカレー、おいしいよ」と言うと、女の子は「ママのより?」と聞いてきた。  百瀬は万事休すを感じ、上を見上げた。この子のママのよりおいしいカレーがこの世に存在するだろうか? 教えるどころか、自分が前頭葉のおまじないに頼っている間に、女の子は職員と手をつないでさっさと行ってしまった。  小さくなった女の子のうしろ姿が、母のようにも見えた。  青い鳥こども園をあとにして、百瀬は都心に向かった。  家政婦協会でミドリと会う約束を取り付けている。遠山の言う通り、母ではないと予想はしていたものの、実際に会って違うとわかると、やはり落胆した。声が違うし、母の顔を覚えていないといっても、「違う」くらいはわかる。  ミドリと名乗る女性は、外で話をしたいと言い、百瀬は公園のベンチで話を聞いた。 「青山ミドリと名乗っていますが、日本国籍はありません。仕事を得るための仮名です。わたしは中国籍で、観光ビザで入国しました。日本語は話せますが、書くのは苦手です。白川ルウルウさんの家では日誌をつけなくてはならないので、それが苦痛で、美枝さんに譲ったんです」  そこまで話すと、一瞬の間をおいて、「彼女はとてもありがたがってくれましたが、親切心じゃないんです。自分のためなんです」と言った。 「うそは重ねないといけないから、つらいです。あなたのような法律の専門家にうそは通じないでしょうし、しかたなくお話ししています。家政婦協会は労働ビザがないことをうすうす気付いてますが、人手不足で見て見ぬふりをしてくれてます。できたらその」 「もちろん口外しません。わたしは警察ではありませんからね。お聞きしたいのは猫のことです。なにか気がついたことがあったら教えていただけますか」 「そうですね。ミスター美波が猫に詳しくて、白川ルウルウさんはそうでもなかったような印象でした」 「そうですか」 「短い間しかいなかったもので、それくらいしか」 「じゅうぶんです。たすかりました」 「それから、関係ないことですけど、ミスター美波は親切です。困っている女性を見るとほうっておけないと言って、掃除を手伝ってくれたこともありました」 「掃除を?」 「ええ、若い女の子に優しい男性はよくいますが、こんなおばちゃんにも優しくて。親切なんですけど、ちょっとやりすぎかなと。だって掃除はわたしどもの本業ですからね。困ってるわけじゃありません」 「たしかにそうですね」 「汗をぬぐっただけなのに、泣いたふうに見えたらしいんです」 「それはまた。少し、おっちょこちょいですね」 「おっちょこちょいです」  ミドリは笑った。やはりミスター美波の親切がうれしかったのだろう。  日が暮れて来た。  百瀬はその足で東京駅に向かった。秋田からの新幹線が六時に到着する。入場券を買い、ホームへ向かう。夕日でホームはオレンジ色に染まっている。  グリーン車の到着地点に立つ。なんだか妙にはりきってしまう。  三千代と亜子はどんな話をしただろう? 亜子はどんな靴を注文しただろう? それはいつごろできるだろう?  ふと、ここに立っていては降りる人の邪魔になると気付いた。少し離れてみる。いやもう少し離れよう。  まだ時間がある。落ち着こう。売店でガムを買い、口に含む。ミント味をかみしめていると心が落ち着いてくる。  四時間半も乗っていたらきっと疲れている。すぐにバッグを持ってあげよう。それから夕食に誘うのだ。東京ステーションホテルのレストランならあまり歩かせずに済む。百瀬は入ったことがないが、あそこは落ち着きますよと野呂が教えてくれた。  新幹線こまちが入って来た。  ホームでは出むかえに来た人間たちが、みなこまちを見つめている。田舎から親戚を迎えるのだろうか。迎える立場の人間になれたことに感謝する。  こまちが停まった。人びとの後ろからそっと出入り口を見つめる。  ドアが開き、人が降りて来る。大きな荷物を持った人間、ビジネスバッグひとつの人間、さまざまな人間が降りて来る。  百瀬はガムを口に含んだままだったことに気付いた。このまま女性を迎えては失礼だ。包み紙を口によせた瞬間、亜子を見つけた。  婚約者の亜子だ。百瀬の天使が降りて来た。  ボストンバッグのほかに紙袋を下げている。荷物が増えたようだ。声をかけようと思った瞬間、亜子は車内を振り返った。するとすらりと背の高い男が降りてきた。  ふたりは笑顔で言葉を交わし、肩を並べて歩き始めた。  百瀬は後ずさった。人ごみで百瀬の姿はふたりからは見えない。周囲では「ひさしぶり」だの「よく来たね」だのと再会を喜び合う声が聞こえる。  ふたりは百瀬の前を通り過ぎた。後ろ姿がさまになっている。遠くからでも、会話を楽しんでいるのがわかる。まるでフランス映画を見ているようだ。  お似合いのカップルだ。  遠目だが、男は非常に仕立ての良いスーツを着ており、肩幅が広く颯爽《さっそう》としている。いかにもグリーン車の客だ。大きな荷物を持っている。ブランドものの鞄だ。亜子はボストンバッグを肩から下げている。荷物を持たせていないことに救われた。かすかに、救われた。  どれくらい立っていただろう。ホームにひとはまばらになった。  百瀬は客のいなくなったこまちに乗ってみた。点検中の車掌らしき人間に「忘れものですか?」と声をかけられた。「はい」と言いながら、グリーン車の通路を歩く。  百瀬はグリーン席に座ったことがない。ゆとりのある作りで、快適そうだ。亜子はきっと良い旅をしてくれたことだろう。  探したが、忘れものは見つからない。百瀬の忘れものは、消えてしまった。  口の中のガムも消えてしまった。いつのまにか飲みこんでしまったらしい。  その帰り、百瀬は梅園家を訪ねた。  大家の住む家は、五百平米の土地に二百平米の日本家屋が建っている。建ぺい率四十パーセント。平屋の豪邸、贅沢の極みだ。いつも玄関で挨拶し、昼間預けている猫のテヌーを迎えて連れて帰る。  呼び鈴を押すと、梅園|光次郎《こうじろう》が出て来た。 「ボロはいない。自分でアパートへ帰ったんじゃないかな」 「そうですか」 「幼稚園児じゃないんだ。いちいち迎えにくるな」 「はあ」 「どうした? 元気がないな。いつもなら、ボロじゃない、テヌーですと言い返すのに」  百瀬は今夜ひとりでいるのは辛いと感じた。テヌーが待っていてくれるなら安心だ。 「遅くにすみませんでした」  百瀬は早く帰ろうと思った。すると梅園は言った。 「百瀬さん、結婚はいつになる?」 「さあ」 「さあって、自分のことだろう? 結婚の時期、まだ決めてないのか」 「ええ、まだ決まっていません」  やっとエンゲージシューズの注文が終わったところだ。ご両親への挨拶は失敗したので、これから挽回しなければならない。さっきの男もひっかかる。 「結婚は決まるんじゃない。決める[#「決める」に傍点]んだ」 「はあ」 「あんなアパートにいつまでいるつもりだ?」  あんなと言われても、あなたのアパートだと言いたい。 「新居は見つかったのか?」 「まだです」 「それはよかった」 「え?」 「新居の候補にどうだ? ここ」 「ここ? ここって、梅園さんのお宅ですか? そんな、まさか、払えませんよ。こんな大きな家のお家賃は」 「無理か」 「それとも部屋をいくつか貸してくださるんですか? それだったら大丈夫かも」 「新婚さんとの同居はごめんだ」 「ひょっとしたら、どこかへお引越しなさるご予定ですか?」 「アパートに越そうと思ってな」 「どちらの?」 「あんたが住んでる部屋」 「え?」 「あそこ方角が最高なんだよ。交換する気はないかね?」 「…………」 「古いアパートで建て替えしたいんだが、あんたのほかにもうひとり借り主がいるから、どけとも言えないし。建設会社やら銀行やらと相談しているうちに、方角がいいってわかってな。住んでみたくなった」  百瀬はアパートを思い浮かべた。  全部で八部屋。昔は満室だったが、今は一階の四部屋は梅園が倉庫に使っており、二階の四部屋のうちふたつは空室だ。道側に百瀬の部屋があり、奥にひとり、男性とおぼしき人間が住んでいる。あまり出かけないのか、留守がちなのか、会うことはない。 「家賃は相談にのる。ま、頭のかたすみに置いておいてくれ」  そう言って梅園は玄関を閉めた。  百瀬は頭をひねりながらアパートへと歩いた。  ひょっとすると梅園はテヌーと別れたくないのかもしれない。ずっと近くで暮らしたいのだ。しかしあんな豪邸に自分のような人間が暮らすのはどうも変な感じだ。もちろん亜子はあの日本家屋によく似合う。こんど亜子に相談してみようか。  それにしても、今日のあの男はなんだろう?  旅先で出会って急展開があり、おつきあいが始まったってことはないだろうか。あの男は超高層マンションに住んでいる気がする。超高層マンションは亜子には似合わない。梅園家のほうが地に足がついていて、しっくりとくる。それはたしかだ。  しかし見たところ、自分よりあの男のほうがあきらかに亜子にふさわしい。しかし見た目だけだ。しかし……しかししかしとしかしの連鎖が頭をぐるぐるしながらアパートに近づくと、にゃう、とテヌーの声がした。  ほっとして階段をかけあがると、二階の自室ドアの前に野呂が座り込んでおり、テヌーにいかのくんせいをあげている。 「野呂さん!」  振り向いた野呂の顔は真っ赤だ。白いビニール袋に缶ビールがいっぱい入っている。 「先生」 「だいじょうぶですか?」 「みっひつ、ねこ、にんひんひけん、ほうこくしまあす」  百瀬は野呂を部屋へかつぎこんだ。      ○  百瀬は野呂にたくさんの水を飲ませた。なんどかトイレに行くうちにアルコールが抜けたようで、野呂の顔の赤みは薄くなった。 「横になったらいかがですか」  野呂は「では少しだけ」と言いながら、座布団《ざぶとん》を枕にして横になった。  テヌーは酒くささが気に入ったらしい。野呂の背中に自分の背中をくっつけて、同じように横になる。あじの開きのような格好だ。  野呂が仮眠している間に、百瀬はご飯をたき、みそ汁を作った。だしは週に一回、昆布でとってストックしてある。ご飯がたきあがると、うちわで冷まし、てのひらを真っ赤にしながら塩むすびをよっつ作り、きゅうりの浅漬けとみそ汁をちゃぶ台に並べた。  よい匂いに野呂は目を覚ました。夜の十一時をまわっている。  百瀬は声をかけた。 「お腹がすいたら召し上がってください」 「うまそうだ」  野呂は起き上がり、さっそく塩むすびをほおばった。「うまい」「なさけない」「わたしはなにをしている」などと言いながら、きゅうりをばりばり食べている。そして汁椀をのぞくと、飲むのを躊躇した。 「このみそ汁、妙な色ですね」 「トマト入りみそ汁です。トマトはアルコール血中濃度を下げる働きがあります」 「みそ汁にトマトなんて、聞いたことないですな」  野呂はおそるおそるひとくちすすり、「おっ」という顔をして、ずずずっと飲んだ。  あぐらをかいた野呂の足の間にテヌーがすっぽりと入り込む。百瀬の猫だから邪見にもできず、野呂はくすぐったいのをがまんした。腹が落ち着くと、野呂は部屋を見回した。客などないのだろう、カーテンも本棚も「あればよし」的な質素なものだ。  百瀬は冷蔵庫から缶ビールを出すと、「ごちそうになります」と言って自分の湯呑みに注いだ。ひとつしかないグラスを野呂が使っているからだ。 「先生って、お酒飲めるんですか?」 「はい飲めますよ」 「冷蔵庫開けた時に見えましたが、わたしが持参した以外に酒類はなかったですね。わたしと七重さんの予想では、先生はお酒が飲めないということで一致してるんです。飲めない理由は、意見が分かれました。七重さんは結婚の願掛けだと言い、わたしはアルコールに弱いと推測していて」 「何か賭けました?」 「ビール一杯賭けました」 「ときどきおふたりで飲みに行かれるんですか」 「行ったことはないですよ。行かないから、ビールを賭けたんです。おふざけです」  百瀬はくすりと笑った。おかしな職場だと思う。 「おふたりともはずれです。願掛けではないし、アルコールに弱くもないです」 「酒、強いんですか」 「強いのではなく、鈍いみたいで」 「酒に、鈍い?」 「ええ。変化が表れません。ですから買って飲むほどの意味もなくて」 「酒は酔うために飲むものですからね」 「一度くらい酔ってみたいです」  百瀬は野呂の左手を見た。 「指輪、なくされたんですか」 「捨てたんです」  そう言って野呂は左手の薬指をさすった。もう何年もはめていたから、そこだけ日焼けしておらず、指輪のあとが痛々しくくぼんでいる。  百瀬は足を崩し、じっくり話を聞く態勢に入った。  野呂がここに来るのは初めてだ。亜子が同僚の春美のうちに泊まったと聞いたときの、あのあこがれの気持ち。あたたかな人間関係がこうしてまたひとつ、自分にも実現できた。うれしい反面、喜んではいけないという気持ちがある。それは野呂のなにか良くない事情によるものだろうから。  一方、野呂は、どこから話し始めようか迷った。百瀬法律事務所に入る時、履歴書を提出したし、その後六年間共に働く中で、ぽろぽろと菓子くずくらいには自分の過去を話して来た。おそらく百瀬はそれらを一ミリの狂いもなく覚えているだろうが、あいにく野呂は自分が何を話したか覚えてない。  とりあえずはじめからざっくりと話そう。 「わたしは山梨の桃農家で育ちまして、大学進学のときに東京に出てきました。親はわたしに家業を継がせるつもりでしたから、東京での四年間をプレゼントしたつもりだったんですよ。ふらふらと遊んでいれば親孝行できたのですが、わたしは本気で勉強しました。法学部で、弁護士を目指しておりました。大学に入るのにも時間がかかっちゃったものですから、司法試験に五回落ちた時はもう三十になっていまして」  百瀬は自分が三十の時を思い出した。日本最大手のウエルカムオフィスにいて、世田谷猫屋敷事件を解決し、その後押し寄せたペット訴訟に明け暮れていた。 「三十にもなって、なにをやってると田舎の両親に怒られましてね。田舎に戻るように言われ、桃の商品管理の仕事を二年ほどやりましたが、やはり法律の夢がね、ちらついて。言えば反対されるから、黙って東京に戻りました。勉強再開です。  親はかんかんで、二度と帰ってくるなと手紙が届きました。正月もひとり東京のアパートで勉強しましたよ。送金は途絶えて、アルバイトしました。ビルの夜警です。あとは朝から晩まで勉強です。それからさらに五回落ちまして。もういいかげんやめようと、使っていた法律関係の参考書を古本屋へ持ち込んだ時に、出会ったんです」 「指輪のかたと?」  野呂はうなずいた。 「わたしの参考書を見て、彼女は言ったんです。弁護士を目指してるんですねと。きらきらした、それは美しい瞳でした。夜空にも似て、湖にも似た、深くて意味深な瞳です。やめると言えなかったんです。古い資料を売って、新しいのを買って、一から勉強し直すんだとか、格好いいセリフが口から出てしまいました。すると彼女は言ったんです。応援しますと。  彼女は古本屋でバイトしながら、夜は大学に通う苦学生だと言ってました。よくおにぎりを持ってわたしの部屋を訪ねてくれました。わたしは学生時代ほとんど遊びませんでしたからね。遅ればせながら青春です。それはもう、有頂天《うちょうてん》になりました」  野呂の気持ちは痛いほどわかる。現在百瀬も有頂天まっさい中で、しかしあのグリーン車の男がひっかかっている。  野呂はみっつめの塩むすびを手に取って言った。 「彼女はあまり料理が得意じゃなくて、おにぎりは石鹸の味がしましたよ。百瀬先生のおにぎりはうまいですね。彼女は少し潔癖性のところがありまして、よく石鹸で手を洗います。しよっちゅうです。そんなところもなんだか、素敵に見えてしまったんです。恋をすると、あばたもえくぼと言いますが、マイナスが愛しく思えるんですよ」  ここまで聞いて、百瀬は亜子のマイナス点はなんだろうと思った。  無い、と思う。  自分のマイナス点は大学ノート一冊分にもなりそうだが、彼女はそれを許容してくれるだろうか? 「やがて彼女はわたしの部屋に住むようになりました。男はきちんとけじめをつけねばなりません。わたしは言いました。弁護士になれたら籍を入れようと。すると彼女は言いました。なれてもなれなくても結婚しますと。笑ってください。情けないことに、その年も落ちましてね。わたしは田舎に帰って親に土下座をして、金を無心しました。親父は封筒を投げつけて、縁を切ると言いました。母はただただ泣いていました。親父が塩をまいている間、わたしは封筒の金を数えていました。二十万入っていました。わたしは東京へ戻り、その金で結婚指輪を買って、彼女の指にはめました。もうひとつは彼女がわたしの指にはめてくれました。明日役所へ行って婚姻届にサインをしようと誓い合いました。翌朝、彼女はいませんでした」 「古本屋には?」 「とっくにやめたと聞きました。彼女の通っている大学に行ってみましたが、そんな名前の学生はいないと」 「だまされたんですか」 「わたしはそうは思いませんでした。彼女はわたしを愛するがゆえに、出て行ったと思いました。勉強の邪魔になってはいけないと、常々気にしていましたからね。わたしが受かれば良かったんです。なさけなくて、勉強を続ける気も失せました」  百瀬はふと母を思った。息子を愛するがゆえに母は離れていったのだと今も信じている。しかし野呂の話を聞くと、あきらかにだまされていると思う。 「だまされていたんです」と野呂は言った。 「ペットシッターの今井静香さんに会ったあと、白川家に行ってみたのです。ほら、ワトソンはシャーロックの指示以上に動くじゃないですか。百瀬法律事務所と言うと、中に入れてくれました。家政婦さんから話が聞ければいいと思ったんですが、白川ルウルウ本人がいたんです。驚きました。それはあきらかに土田《つちだ》とめ子《こ》なのです」 「土田とめ子?」 「わたしが生涯かけて愛した人の名前です。やはり愛し合っているもの同士は神様がね、うまいこと差配《さはい》して会わせてくれるんだと思いました。感動の再会ですよ。ところが彼女はわたしを見て、どなたですかと言いました。わたしは弁護士の野呂ですと言いました。ええ、見栄をはったんです。しかし、野呂と聞いても全く記憶にないようで、猫の件は弁護士のMに頼んでますと、ぴしりと言い返されました」 「野呂さん、だまされたのではなく、白川さんが忘れているだけでは? 若干記憶力に問題がある方のようですから」 「今井静香への聞き込みで知ったのですが、白川ルウルウは過去にあちこちでうその恋愛をしていたのです。偽名を使って。なんと演技の稽古だそうですよ。とんでもない女です。過去の恋人たちがときどき訪ねてきて、だまされたと知り、怒ったり泣いたりと、すったもんだが何度もあったそうです。わたしもそんな男どものひとりだったわけですよ」  話す野呂の横でテヌーはおかかごはんを食べている。  獣医のまことは「猫には猫専用のえさを」と主張するが、テヌーは梅園家でさしみなど人間の食べ物を分けてもらうのに慣れてしまったらしく、やたらと人のものを欲しがる。当然の権利だと言わんばかりで、前足で「くれくれ」と人間を叩く。ひと口わけてやるだけで気が済むようなので、そうしている。  野呂は塩むすびをみっつ食べ、みそ汁を飲み切った。 「カッときて、指輪は多摩川に放ってきました」  勢い良く言ったあと、野呂は不安になったらしく、「不法投棄に相当しますかね」と言った。 「危険物ではないし、水質汚染にもならないし、自然破壊の心配には及びませんから、気になさることはないでしょう」  野呂はほっとした顔をし、ふーっとためいきをついた。 「先生、わたしが最も情けなかったのはね、うそっき女は夢を叶えて女優になり、わたしは夢叶わず、弁護士だとうそをついてしまった。そのことがなんだかもうくやしくて」  野呂はいったん黙り、ぽつりと言った。 「みじめです」  それから野呂は勝手に冷蔵庫を開け、ビールを取り出して飲んだ。  ビールをあおる野呂の横で、百瀬は「土田とめ子」という名前を反芻《はんすう》した。  今井静香の証言を詳しく聞こうとしたが、野呂は「過去の男の復讐で、猫が妊娠したんですよ」と今井静香の受け売り推理を支持した。「因果応報、自業自得です」と言い切ると、再び横になり、いびきをかき始めた。  テヌーはいびきが苦手らしい。押し入れに入ってしまった。  野呂に「依頼人の情報が漏れないよう聞き込みは慎重に」と注意したかったが、それは次回にしよう。今はただ、こころおきなく寝かせてあげたい。  部屋には野呂のいびきが響き渡り、今夜は眠れそうにない。知らず知らずいびきに呼吸を合わせている自分がいる。これが人と暮らすということなんだ。家族とはなんとにぎやかで、めんどうで、あたたかいものなんだ。  百瀬はあぐらをかき、背中を壁にもたれた。腕組みをして顔を上に向け、目をつぶった。  するといくつかのピースが浮かんだ。  土田とめ子、親切すぎるミスター美波、ネコという名の猫、そして……帆巣という男。 [#改ページ] [#見出し]   第五章 ハンスと花びら 「え? ドタキャンされたんですか?」  春美は喫煙ルームでサンドイッチをほおばりながら、目を丸くした。  五階の丸山商事はせっかく喫煙ルームを設置したものの、悲しいかな、本来の目的で使われたことは一度もない。  設置工事の最中に、おじさまたちのアイドル・山桜《やまざくら》クルミが健康保険組合主催の禁煙キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれてしまったのだ。現在、健康保険組合はどこも財政が逼迫《ひっぱく》している。みんなに健康になってもらい、保険を使わないでほしいから、必死だ。 「煙草とわたしとどちらをとりますか?」というコピー、上目遣いの山桜クルミのポスターが全国にばらまかれ、おじさまたちはみな迷わずクルミを選んだようで、喫煙ルームはすっかり亜子と春美のランチルームとなっている。 「亜子先輩、わたしの中の猫弁太郎像がだいぶぶれ[#「ぶれ」に傍点]てきました。わたし、結婚プロジェクトを牽引《けんいん》してゆく自信がなくなりました」 「そう言わないで。わたしも先行き不安なんだから」 「猫弁のくせにドタキャンって。なにさまのつもりですか」春美は納得がいかない。 「悪気はないみたい」 「悪気がないっていうのがまずいですよ。それって更生の見込みがないってことじゃないですか。裁判で不利になるなあ。おそらく刑期は長くなりますよ」 「百瀬さんは被告人ではありません。弁護士です」 「で、帰ってから会ってないんですか」 「無事帰って来たって電話をしたのだけど、百瀬さん、おうちにお客さんが来ているみたいで、その人が寝てるからって小声で話すから、悪いと思って切った」 「六畳ひと間にお客さんが来ていて、寝てる? それ、やばくないですか」  亜子は一瞬、寒気がした。しかしすぐに三千代のことばを思い出す。 「あなたには人を幸せにする才能がある。百瀬くんはラッキーだ」  そう、百瀬太郎を幸せにできるのは自分しかいないと思う。  亜子の携帯が鳴った。「ごめんね」と断って携帯をチェックする。メールがきたのだ。  春美はのぞきこむ。 「秋田から帰ってからメールがひんぱんですね。猫弁からですか」  亜子は返信メールを打ちながら、答える。 「いいえ。靴職人さん」 「メル友になったんですか?」 「いいえ。女性とのおつきあいをアドバイスしてるの」 「メル弟子? ただで? もったいない」 「みんなに幸せになってほしいじゃない」  亜子はメールを送信した。 「片道四時間半、長かったでしょう。飛行機にしておけばよかったですね」 「でもそのおかげで春美ちゃんが喜びそうなニュースがあるの」 「なになに?」 「美容コンシェルジュのミスター美波と隣の席だったの!」 「ええ? ほんとですか?」  春美は身を乗り出した。 「やはりテレビと同じ顔でした? あんがい、ちっちゃかったりします?」 「すらっとしてた。テレビのまんまで、いかにも芸能人って感じ。おしゃべりも上手で」 「え? しゃべったんですか」 「帰りの新幹線で、むこうから話しかけてきたの。お元気になられて、よかったって」 「どういうことですか?」 「行きの新幹線でも近くの席だったらしくて、わたしがずいぶん暗い顔をしていたから、心配だったんですって」 「さすがグリーン車。亜子先輩ラッキーですよ。猫弁と自由席より、ミスター美波とグリーン席の方がだんぜん、ラッキー」 「それでね、これをくれたの」  亜子はサンプル用の美容ジェルを取り出した。小さな丸いケースだ。 「あ! 十歳若返る美波ミラクルジェルだ。いいなあ」 「春美ちゃんが十歳若返ったら、中学生になっちゃうじゃない」 「いいなあ、いいなあ」 「じゃあ、あげる」 「え? いいんですか?」 「それともうひとつ。これはわたしからのお土産」  亜子はそのジェルよりふたまわり大きいケースを春美に渡した。 「三千代さんが開発した靴クリーム。何色の靴にも使えるんですって。革が十年若返るらしいよ」 「革の靴をもってないんですけど」  春美は『三千代の靴』とラベルの貼られた靴クリームを眺めた。丸くて黄色いラベルのまんなかに小さな赤い靴の絵。デザインはアンティーク風でかわいらしい。値段が五千円と知り、高いと思った。お昼代十回分だ。  でもきっとこれは売れる。プレゼント用と考えれば納得な値段だし、通販で売るシステムを作ったら、ヒットすると感じた。梅園の投資なんて要らない。三千代店長がウンと言えば、経費もかからずすぐにもネットショップが開設できる。何かとセット販売するのもいい。靴の日ってあったっけ。いつだっけ? 「一度秋田に行ってみようかなあ」 「行こうよ。春美ちゃんの靴を作りに。ついでにふたりでどこか温泉でもつかってこようよ」 「それよりミスター美波の話を聞かせてください」 「それがね、猫を運んでたのよ」 「新幹線で?」 「バレンチノの特製キャリーだったから、最初は気付かなかったんだけど、みーって鳴いたの。種類はわからないけど、かなり大きな猫だった。秋田のブリーダーから買ったんだって。日本の国内線飛行機だとペットは貨物室になっちゃって、大きな音がするらしいの。ペットにとってはかなりのストレスらしい。かわいそうだから、時間はかかるけど新幹線にしたんですって。日本は遅れている、ペットは飛行機のファーストクラスで運ぶべきだと力説してたわ」 「なんで亜子先輩のまわりには猫男《ねこおとこ》が集まるんでしょう」 「春美ちゃんはどうなの? 梅園さん、プロポーズしてくれた?」 「全然だめですよ。そんな大きな家にひとりで住むのはもったいないんじゃないですかと水を向けたんですけど、ならば人に貸そうと言い出して」 「わたしが春美ちゃんのアドバイザーやってあげようか」  いつもだったら一笑にふす春美だが、意外にもこう言った。 「やってもらおうかな。自分のことは見えませんからね」      ○  オフィス街にある喫茶エデンは昭和四十年に建ったあか抜けないビルの一階にある。  サラリーマンの商談や待ち合わせに使われる昔ながらの喫茶店だが、チェーン展開するカフェが急増する中、流行に乗れない中年男女のオアシス的存在になりつつある。  ウェイターの梶佑介《かじゆうすけ》は、二十代後半の若者である。窓際の席でひとり座っているこけしのような女の子が気になってしかたない。  女の子と言っても、二十代前半、大学生だろうか。「アイスミルクティーください」の言葉に、かすかな会津《あいづ》なまりが感じられ、同郷ではないかと推測する。  梶はふるさとになじめず、都会へ出て来た。出て来たらなんとかなると思ったら、案の定、なんとかなった。職があり、食っていける。都会の水は自分に合っていると感じる。田舎にいたころの飢餓感《きがかん》はない。  そのかわり、常に何かに追われているような感じだ。東京にいるとふるさとが大切に思える。帰りたくはないが、存在すると思うだけでほっとする。  同郷人かもしれないあの子に、気合いを入れておいしいミルクティーを作ってあげよう。  こけしはなんどか入り口を見る。だれかと待ち合わせのようだ。  そこへなじみの客が現れた。もじゃもじゃ頭に丸めがねの中年男だ。店内をきょろきょろながめている。お前さんの彼女はまだですよと言いたいが、ウェイターの分をわきまえて、見て見ぬふりをする。丸めがねはいつもの彼女がいないとわかると、どこの席にしようか、迷っている。選ぶのが苦手なようだ。  するとこけしが声を上げた。 「百瀬先生!」  百瀬先生? そうか、あいつは先生[#「先生」に傍点]なんだ。中学か高校の教師かなにかで、ときどき、卒業生の相談にのっているのだ。梶は納得し、ミルクティー作りに没頭した。  百瀬はめがねに手をそえ、窓際の女性を見る。変だ。違うと思う。  呼ばれたので一応、彼女の前に座ってみた。近くで見ると、なるほどたしかに本日待ち合わせた相手、味見克子だ。  とまどいつつも「こんにちは」と言ってみる。 「髪、切ったんです」と味見克子は笑顔で言った。  髪だけではない。なにかが違う。リクルートスーツではなく、ピンクのTシャツにジーパンをはいている。顔はあいかわらず特徴がないが、声にはりがある。 「お元気そうですね」  そう言うのが精一杯だった。女性って髪型や服装でずいぶん変わるのだ。珈琲を注文すると、百瀬はあらためて言った。 「電話してすみません。一応、密室猫妊娠事件の進捗状況を伝えておこうと思って」 「わたしこそごめんなさい。電話でとおっしゃったのに、会ってお話ししたくて」 「なにかありましたか?」 「わたし、オフィス・タナカのインターン、やめたんです」 「え?」  それならば会う必要はなかったのに、と百瀬は思った。 「ほかに内定が決まったのですか?」 「いいえ、もう就職はあきらめました」  そのときアイスミルクティーが置かれた。 「お先にどうぞ」と百瀬が言うと、味見克子はミルクティーをストローで飲み、「おいしい」と言った。「すごくおいしい」と念をおした。めげている様子はない。  百瀬は言った。 「ケストナーの抵抗の精神、進んでいますか?」 「覚えてくれていたんですか?」 「卒業まで卒論に集中するんですね」 「その論文も、やめました」 「え?」  百瀬は心配になったが、味見克子は笑顔だ。 「わたし、背伸びしてたんです。かっこいいタイトルつけて、それらしい文章を書いてやろうって。就職活動もです。卒業までに内定もらうと格好がつくから、最後は選ぶこともやめてしまって」 「そう」 「先生がわたしのために口裏を合わせましょうって提案してくれたとき、わたし、思ったんです。人に負担をかけて、自分だけうまいことやって、そんなことをして、いいのかなって。うちに帰る途中も、帰ってからも、自分に聞いてみたんですけど、やはり……そういうのはよくないと思ったんです」  百瀬ははっとした。 「その結論にたどりつくのに、三日かかっちゃったんですけど。ずるはよくないって、田舎のじっちゃんも言ってたし。そんなにまでしてやりたい仕事かというと、そうでもなかったし」 「…………」 「先生、大学は就職予備校ではないよと言ってくれたでしょう? その言葉で、入学した頃の気持ちを思い出したんです。入学できたとき、うれしかったこと。児童文学が好きだってこと」 「そう」 「そしたらね、さっきまで一センチ四方だった自分の未来が、無限に広がったような気がしたんです」 「…………」 「将来のことはすごーく不安ですけど」  そこでいったん、ミルクティーを飲み、まるで自分に言い聞かせるように言った。 「卒業までしっかり勉強します」  百瀬は特徴のない丸顔の女の子の言葉がずしんと胸に響いた。この人を楽にしてあげたいと何気なく提案したが、彼女には彼女なりの倫理観《りんりかん》があって、かえって苦しめてしまったのかもしれない。  親切は、難しい。  百瀬の目の前に珈琲が置かれた。 「味見さん、甘いものお好きですか?」 「はい、大好きです」 「じゃあ、ショートケーキ召し上がりませんか? すごくおいしいんです、ここのケーキ」 「わあ、食べたい」  百瀬はウェイターにショートケーキふたつを注文した。  彼女が誠実に生きようとするのを邪魔してはいけない。けど、でも、彼女のこの小さな体にせめてカロリーくらい補給してあげたい。  ふたりの前にショートケーキが置かれた。 「あれ? わたしのいちご、すごく大きい」 「ほんとうだ」  笑えるほど大きないちごがぽこんと載っている。百瀬のいちごの倍の大きさだ。  味見克子はうれしそうにいちごを指でつまんで、かじった。  百瀬はちらっとカウンターを見た。ウェイターはこちらに背を向け、カップを磨くのに忙しそうであった。      ○  白川ルウルウは朝早くに稽古にでかけ、夜まで帰らないと言った。家政婦の山田美枝は一階のリビングの掃除を終えると、ノートに『十時十五分、リビングの掃除終了』と書き込んだ。ひといき入れようかしらと思ったら、呼び鈴が鳴った。  ドアを開けると、丸めがねの弁護士が立っている。 「あら! 百瀬先生、お約束でしたか? 白川さんたらまた忘れちゃって、おでかけですよ」 「いいえ、お約束はしていません。ちょっとお庭を見せていただきたくて」 「まあまあ、どうぞどうぞ」  山田美枝はうれしそうに庭に出た。 「裏に庭園があるんですよ。池もあります。そこの手入れはわたしの仕事ではないのですが、自由に見ていいと白川さんに言われています。わたし時々庭園を歩いて、気分転換しているんですよ」 「裏庭は結構です。表のベベルームの下を見てみたくって」  百瀬がそう言うと、山田美枝はあきらかにがっかりした顔をした。  百瀬はすかさず言った。 「やはりまず、その庭園を見せてください」  山田美枝はにこっと笑った。  それは山田美枝が見せたがる気持ちのわかる、すばらしい庭であった。  まんなかに池があり、小さな橋がかかっている。その周囲には菜の花、たんぽぽ、かすみ草、雪柳《ゆきやなぎ》などの春の野花が咲いている。手入れはされているが、人工的な匂いはなく、自然に生えてきたものを多少間引いている、そんなやさしい感じがする庭だ。  桜の太い木が一本あり、山桜なのだろう、花より先にきみどりの葉が顔を覗かせている。  百瀬はフランス王妃マリー・アントワネットが作らせたプチ・トリアノンを頭に浮かべた。きらびやかなベルサイユ宮殿とはまったく違う、素朴《そぼく》な農園。王妃にとって、やすらぎの場であったという。  山田美枝はリズミカルに歩きながら、立ち止まっては解説する。 「これはムスカリ。これはニリンソウ。これはタイツリソウ。ほら、魚を釣ったみたいな花でしょう?」  山田美枝はうれしそうだ。ときどきしゃがんで、「あ、芽が出てる!」などとはしゃいでいる。  百瀬は山田美枝の背中を見ながら思う。このひとはやさしいご主人とあたたかい家庭を持っていたのだろう。春にはお弁当を持って野山へ行ったのかもしれない。野花にくわしいのはご主人の影響かもしれない。 「これはなんですか?」と尋ねると、小学生のようにはりきって答える。 「アリウム! 花玉《はなたま》ねぎとも呼ばれています。ねぎぼうずに似てるでしょう?」  すっかり乙女だ。愛らしい。乙女とのそぞろ歩きは、百瀬にとっても楽しい時間であった。  十分後、山田美枝はキッチンで掃除をしながら、ときどき窓の外を見ていた。  百瀬弁護士は庭をうろうろしたあと、非常階段を使って一階の屋根にのぼった。「二階の屋根までのぼります」と断っていたから、さらに上まで行くのだろう。キッチンの窓からは、途中までしか確認できない。  しばらくすると「あっ」という声がした。  まさか落下?  窓から外を見ると、百瀬弁護士は庭にはいつくばって、草を見ている。足跡でも探しているのだろうか。と思ったら、急に立ち上がり、遠くの公園を眺めたり、かと思えば、上を見上げたりと、忙しそうだ。  キッチンの床掃除を終えると、窓をコツコツと叩く音がした。百瀬だ。  山田美枝が窓を開けると、百瀬は言った。 「確認作業は済みました。お世話になりました」 「先生、頬にすりきずが」 「一階の屋根から落ちました。一階なので、だいじょうぶです」  百瀬はぺこりとお辞儀《じぎ》をすると、公園のある方向へ走って行った。手をぐるぐる振り回し、ちょっと変な走り方だ。  山田美枝は「なんて若いこと」と微笑む。  夫を思い出す。若い頃から太っていて、走る姿なんて想像もできない人だった。おだやかな人だった。ものごしのやわらかさは、あの弁護士と似ている。  庭を歩いたとき、背中を向けて顔を見ないようにしていると、夫といるような錯覚を覚えた。夫が死んでしまい、さびしいさびしいと思っていたが、今日はなんだかちょっと違う気分だ。  夫とのあたたかい思い出がある自分は、しあわせなのだと思えた。自分が生きている限り、この思い出は消えない。夫が死んでから初めて、「長生きしたい」と思った。  その夜、百瀬は事務所に戻ると、さっそく上を見た。前頭葉に空気を送って頭を整理する。  公園に男がいた。話しかけても返事をしない。まことから話を聞いていたので、通称「番さん」とはわかったが、残念ながら証言は得られなかった。番の生活、社会性や将来性は気になるものの、猫については、まことからの情報で充分だと判断した。  密室猫妊娠事件にはいくつかの偶然の重なりがある。しかしこの事件が成立するには、たったひとつの作為が必要だ。  整理が終わると、ミスター美波の事務所に電話をかけた。パズルはあとひとつ、彼が最後のピースに違いない。  ミスター美波は出張が多く、なかなかつかまらない。しかしそのおかげで外堀を埋めることができた。呼び出し音を聞きながら、留守電に変わるのを待つ。もうなんども空振りなので、ピーッという発信音のあとに入れる言葉をすでに用意していた。  ガチャッと音がして「美波です」という声があった。その後、無言だ。  ひょっとして本人? いるのか? 「わたくし百瀬法律事務所の百瀬と申します」と言うと、「あ、百瀬先生? なんどか留守録いただいたようで、すみません」と返ってきた。  百瀬はごくんとつばを飲み込み、最後のピースに話しかけた。      ○  百瀬は白川家の広いリビングでソファに座り、女主人を待った。  ペルシャ絨毯の上に自分の靴が載っている。かつて七重に無理矢理買わされたサクライの靴だ。十五万もした。一生履き続けたいと思える心地よい靴だ。この靴はその良さにおいて、ペルシャ絨毯に負けてないと思う。  家政婦の山田美枝がいれてくれた紅茶はまるで「アールグレイだ!」と叫んでいるかのように、良い香りを放っている。先日のダージリンもうまかった。  山田美枝は家事が苦手だと言ったが、出してくれる紅茶はひじょうにおいしい。苦手意識があるゆえに、毎度丁寧にいれてくれるのだろう。彼女はいずれ家事のスペシャリストになるのではないだろうか。  得意分野でなくても、心をこめて行えば、良い結果を生む。それは女性とつきあうのが苦手な百瀬にとって、勇気をくれる前例だ。亜子との交際も誠心誠意がんばれば、いつの日か結婚にこぎつけるかもしれない。  白川ルウルウは、百瀬が来ることを忘れてランチを食べに出てしまったらしい。 「あと三十分で戻りますから」と山田美枝はすまなそうに言った。  そこで百瀬は三十分、婚約者の亜子を思いながら過ごすことにした。  三日後に会う約束をした。秋田の話をたっぷりと聞きたい。  先日せっかく電話をもらったのに、野呂がいたのであまり話せなかった。新幹線の男のことも気になっている。正直言えば、すごく気になっている。その男と亜子のツーショットを思い出すたびに、みぞおちがすーっと寒くなる。昔遠足で東京タワーに登った時も、こんな感じがした。高所の恐怖に似ている。  これがよく聞くところの「嫉妬《しっと》」という感情なのだろうか。  百瀬は子どもの頃からずっと、家庭がある人間をうらやましいと思ってきた。いいなあ、自分も欲しいなあというあこがれの気持ちはあっても、このような不快な気持ちを持ったことはない。  あのときは違った。あの男の代わりに彼女の隣にいたいと思った。どいてくれと言って割り込みたい気持ちだ。しかしそれもできないほど、ショックを受けていた。想定外だったからだ。  大福亜子はかつて百瀬にとって結婚相談所のアドバイザーであった。そして今は婚約者である。途中のステップがないので、彼女を客観視したことがない。  大福亜子という女性は、ほかの男からどう見えているのだろう。  秋田の三千代にお礼の電話をかけたが、「こっちでのことは、すべて大福さんからお聞き」と言われ、靴の出来上がりの日程も教えてくれなかった。金額だけはきっちりと教えてくれ、「請求書を送るが、分割でもいいよ」と言った。分割でないととうてい無理な金額だったので、お言葉に甘えさせてもらう。  亜子ジャンル思考中に白川ルウルウが現れた。  本日の白川ルウルウは気難しい女代議士風である。あらかじめ山田美枝から聞いていたので、驚きはしなかった。 「真相がわかったっておっしゃいましたね?」と上から目線で始まった。 「ベベを妊娠させた犯人に、慰謝料請求します!」  よく通る声でたんかを切った。まるで舞台劇のセリフだ。絶妙な間《ま》をとって、女代議士は問いただす。 「誰ですか、犯人は?」  百瀬は間《ま》がわからず、もにょもにょとしゃべった。 「犯人はいません」 「なんですって?」 「それが真相です」  女代議士はいきりたった。 「じゃあ、ベベはマリア様だっていうんですか? 密室にいて妊娠するだなんて!」  そこでいったん目を伏せ、女代議士はうつむいた。しばらくすると、カッと目を開き、斜め上に向かって「ありえませんわっ!」と叫んだ。  百瀬は拍手をしたい気持ちをおさえ、真相の続きを話した。 「ベベさんは妊娠していません。ご安心ください」 「え?」  白川ルウルウは真上を見上げた。前頭葉に空気を送ったわけではなく、三階にベベルームがあるからだ。態度は代議士のままであったが、気難しい部分は消えた。 「昨夜も確認しましたけど、おなかが大きくて、今にも生まれそうでしたわ」 「そうですか」 「先生に言われた通り、高さの低い段ボール箱を用意して、中にタオルをいっぱい敷いておきました。今朝のぞいたらベベはそこにいて、でもまだ生まれていませんでした。妊娠じゃなかったんですね」  その時、呼び鈴が鳴った。山田美枝が応対し、リビングの女主人に伝えた。 「柳まことという女性がいらしてます。獣医さんだとおっしゃって」 「わたしが呼びました」と百瀬は言った。「入っていただいていいですよね?」 「ええ」  白衣を着た柳まことは颯爽と、大きなキャリーを持って入って来た。それをペルシャ絨毯の上にそっと置くと、「はじめまして」と女主人に挨拶した。  百瀬はあれっと思った。一緒に来るように言ったのに、まことはひとりだ。  白川ルウルウは何も言わず、というか、言えないくらい動揺していて、大きな目でキャリーの中を見つめている。  百瀬は言った。 「DNA鑑定はまだですが、こちらがベベさんです」  白川ルウルウは青ざめた。 「そんな、うそよ」  白川ルウルウから代議士は消えた。子どものようにぴょこんとしゃがみ、キャリーをのぞきこんでいる。 「みー」と声がする。  白川ルウルウはそっとキャリーの扉を開けた。  中から灰色猫が現れた。毛はざん切りで、メインクーンのすばらしい姿とはほど遠いが、威厳たっぷりに、しゃなりしゃなりと歩く。ペルシャ絨毯の上をゆったりと歩いたあと、いきなりばりばりと爪研ぎをした。  意外なことに、白川ルウルウは怒りもせず、ただただ灰色猫を見つめている。灰色猫がごろんと横になっても、絨毯を気にする様子もない。ベベルームに閉じ込めていたのは、絨毯保全のためではないらしい。百瀬はやはりと思った。 「ベベ?」と白川ルウルウはつぶやいた。 「よく見てください。わかりませんか?」と百瀬は言った。  白川ルウルウはわからない、というふうに首を横にふった。  するとそばにいた山田美枝が手を挙げて叫んだ。 「にんじんの千切りを持って来ます!」  白川ルウルウは大きな目で山田美枝を見た。 「百瀬先生に頼まれて、たっぷり作っておきました」  山田美枝は得意げに叫ぶと、キッチンに引っ込み、小さなボウルににんじんの千切りを山盛りにしてきた。中指の第一関節のあたりに、うっすらと血がにじんでいる。うっかり指もおろしてしまったようだ。  匂いに反応して灰色猫はそわそわした。ボウルが床に置かれたとたん、顔をつっこみ、しゃくしゃくしゃくとおいしそうに食べ始めた。  白川ルウルウは感無量の表情でその様子を見つめている。 「ベベですわ。間違いありません。でもなぜ……いったいどうして」  百瀬は白川ルウルウの手をとり、ソファに座らせた。そして自分は立ったまま、ゆっくりと説明した。 「以前白川さんはベベルームに鍵をかけていませんでしたね。あのドアノブは、前足を引っかけて体重をかければ、部屋の外へ出られます。避妊手術をしていない猫は、している猫よりも脱走願望が強い傾向にあるんです」 「脱走願望?」 「種を残したい。本能です。出会いを求めて外へ行くのです。さて、どうやって屋外へ出たかですが、おそらくトイレからだと思います。人間のトイレです。人はトイレに入ります。そして用が済めば外へ出ます。その出る時に、入れ違いにベベさんがトイレに入ったのでしょう。人間が入った時に同時に猫が入ると気付くのですが、出る時に入られると、気付かないものです。わたしも何度か事務所や自宅で、うっかり猫をトイレに閉じ込めてしまいました。このうちのトイレは一階も三階も窓があり、折りたたみ式です。全開口サッシとも言いますが、網戸《あみど》が取り付け不能のデザインです。この家で唯一、網戸がないのはトイレです。三階のトイレの窓の約一メートル下には二階のひさしがあり、その横に非常階段があります。おそらくそこから外へ脱走したのでしょう」 「では、ベベルームにいる猫は?」 「ご本人の口からお聞きになってください。もうじきいらっしゃいますので」 「本人?」 「ミスター美波です。彼のしたことはすべて親切心からなので、落ち着いて話を聞いてくださいね」 「どういうことですか」 「白川さん、最初から整理しますと、あなたの依頼は、ベベさんが妊娠したので犯人を捜し出して責任を追及したい、でしたよね」 「そうです」 「しかしベベさんは妊娠していません。ゆえに犯人もいません。ベベさんは自ら家出して、今こうして無事に戻ってきました。大きな怪我はなく、血液検査の結果、幸い感染症もありません。複数の人の親切が重なって、生きてもどってこられたのです」  柳まことが口をはさんだ。 「現在妊娠してないし、避妊手術もしていません。じき毛も生え揃うし、来年のキャットチャンピオンシップには参加できますよ」 「この子は今までどこにいたんです?」  まことはリビングの大きな窓を指差した。 「見えるでしょう? あの公園にいたんです」  窓から見える公園は、本日は全体に薄いピンク色をしている。桜が開花したのだ。  まことは言った。 「目撃者もいます。お相手を求めて出て行ったはいいけど、あの公園の猫たちとは育ちが違い過ぎて、うまくいかなかったのでしょう。ほかの猫に追い出されて、環八に入ってしまったところを、トラックの運転手が見つけて、うちの病院に連れてきたんです。栄養不足で弱っていたんでね」  百瀬がまことに尋ねた。 「彼にも来ていただくようお願いしましたが、都合付きませんでしたか?」 「車で待ってる。こういう豪邸、苦手みたいよ。なんであいつを呼ばなきゃいけないの?」  その時、呼び鈴が鳴った。玄関に走って行った山田美枝が「ミスター美波さんがいらっしゃいましたあ」と叫んだ。  ミスター美波は颯爽と入って来た。  百瀬は驚いた。  新幹線こまちから亜子と降りて来た男だ!  ホームで見た時同様、かっこいい。歳は三十代後半だろうか。身長は百八十センチ以上ありそうだ。いかにもタレント然として、ぴかぴか光っている。 「いやあ、ごめんなさい、みなさん、ごめんなさい」  ミスター美波はさわやかにあたりを見回し、百瀬に目をとめた。 「あなたが百瀬先生?」 「はい、わたしが百瀬です」 「初めまして。昨日先生からお電話をもらって、こんな騒ぎになっていると初めて知りました。いやー、うまくいったと思ったんですけどね。各方面に頭下げなきゃですね。白川さんには特にごめんなさい。ご心痛でしたね。すべてはわたしの余計なお世話が発端なんです」  ミスター美波は持っていたバレンチノのキャリーを床に降ろした。  白川ルウルウは「なんですの? それは」と言った。 「こんどこそ優勝できます。すばらしいメインクーンを手に入れましたよ。うそをついたおわびに、わたしからのプレゼントです」  白川ルウルウは立ち上がり、「はじめから説明してください」と言った。  ミスター美波は「では、白状します」と背筋を伸ばした。 「ベベさんがいなくなりました。白川さんがお留守のときです。ぺットシッターの今井さんが必死で探していました。困った女性を見ると、胸が痛くなるのでね、わたしが見つけておきますからと言って、彼女には帰ってもらいました。女性の涙を見たくないんです」  ミスター美波は眉根をよせた。女性の苦痛は人類の敵だ、と思っているようだ。 「以前もなんどかベベさんは脱走し、たいてい三階でうろうろしてました。だからその日もすぐに見つかると思ったんです。ですが見つからなくて。急遽自宅に戻って、うちの子を連れて来て、ベベルームに入れておいたんです。誰も気付かないと思いました。マリンはベベの母親ですからね、そっくりでしょう? ええ、三階にいるのはマリンと申します」 「なんてこと」  白川ルウルウはソファに崩れ落ちた。 「白川さん、ごめんなさい。妊娠してることに気付かなくて」  ミスター美波は白川ルウルウに手をあわせてあやまると、部屋にいる人間すべての顔を見ながら、まるでテレビカメラを意識しているかのように、さわやかな口調で話す。 「うちには雄と雌がいるんです。スカイとマリン、仲のよい夫婦でね、子どもが産まれると、方々に譲っているんです。ここ三年は妊娠しなかったのでね。もう歳だと思い、あきらめていました。最近忙しくて、こちらへ来てなかったものですから、こんな騒ぎになっているとは知りませんでした。密室猫妊娠事件? アガサ・クリスティーも思いつかないミステリーだ。あはははははは」  ミスター美波につられて笑う人間はいなかった。 「マリンは連れて帰ります。ちょうど秋田から、血統のすばらしいメインクーンを譲ってもらったところです。うちで飼うつもりでしたが、いなくなったベベさんの代わりに、いかがですか?」 「ベベは見つかりましたの」  白川ルウルウは階段下を指差した。にんじんを食べて満腹した灰色猫がだらりと横たわっている。 「これが? 毛がひどいことになっているじゃないですか」とミスター美波は言った。 「これではキャットチャンピオンシップには参加できない」  すると柳まことがミスター美波の前に立ちはだかった。 「ミスター美波さんでしたっけ? あなた、猫の命をなんだと思っているんです?」 「え?」 「ベベが見当たらないからマリン? 脱走したらきちんと探すべきではないですか?」 「そんな、無理ですよ。世の中広いんですから」 「密室で飼っていた猫がいきなり外へ出て、無事生きて行けるとお思いですか?」 「…………」 「それと、マリン。彼女の気持ちを考えたことありますか? 妊娠中は不安定なんです。それをいきなり知らない場所に連れてこられて」  ミスター美波は「鼻の頭、日に焼けてますよ」と言った。 「しみになるといけないから、あとで美白クリームをさしあげます」 「あなたケンカ売ってるわけ?」まことはいきりたつ。 「わたしは白川さんにハリウッドで活躍して欲しいんですよ」とミスター美波は言った。 「白川さんはすぐれた女優さんです。実力本位のアメリカで勝負すべきです。小さな役でいい。演技力を正当に評価される場で活躍してほしいんです。白川さんは猫が苦手です。でもあそこのキャットショーに出入りすれば、ハリウッドにコネができるんです。三年前、彼女にベベを飼うように勧めたのはわたしなんです」  すると白川ルウルウが割って入った。 「美容の相談にのってもらっていたとき、わたくしがついぽろりと愚痴をこぼしたんです。女優としてもっとやりがいのある仕事をしたいと。それならばとミスター美波がキャットチャンピオンシップを紹介してくれて。去年は二位でしたが、てごたえはありました。今年は優勝して映像界にパイプをつくろうと思ったんです」  まことは言った。 「だから猫が入れ替わっても気付かないんだ。そもそも愛情なんかこれっぽっちもないんだから」  白川ルウルウは言い訳をしない。 「猫部屋は?」とまことが聞くと、「三階です」と白川ルウルウは答える。  まことは勝手にずんずんと階段をのぼりはじめた。踊り場で振り返ると、「鍵!」と叫ぶ。すると白川ルウルウは素直に「はい」と返事して、まことのあとを追う。女ふたりが駆け上って行くのを、ミスター美波が追った。  灰色猫のベベは人間のどたばたを意に介さず、ゆっくりと歩いて、バレンチノのキャリーに鼻をくっつけた。みい、みいと中の猫と会話している。  百瀬が声をかけようとすると、山田美枝は「わかってます」と言った。 「猫見張り役ですね。だいじょうぶ。逃げないように見張っています。まったくもう、あんなにベベ、ベベとさわいでいたのに、みなさん、だーっといなくなってしまって。また逃亡したらどうするんですかね。うかつにもほどがあります」  百瀬が「ベベさんをキャリーに戻しましょうか」と言うと、山田美枝は顔を横に振り、 「せっかくわがやに戻ってこられたんですから、自由にさせてあげましょう」と言った。  百瀬は山田美枝をたのもしく思い、「では、おねがいします」と言って、三階にあがった。  ベベルームでは銀色のメインクーンが「みーみー」と低い声で鳴きながら、小さく円を描くように歩いていた。マリンだ。  まことは「もうすぐだ」と言いながら、人間が近づくのを制止した。  やがてマリンはタオルがしきつめられた段ボール箱の中で横たわると、「ぎゃっぎゃっ」と叫び、いきんだ。しかし何も出て来ない。しばらくするとまた「ぎゃっぎゃっ」と叫ぶが、やはり出て来ない。マリンは再び立ち上がり、「みーみー」と鳴きながら段ボール箱から出たり入ったりしている。  まことは片膝を突き、おだやかな顔でマリンを見つめている。まことの横顔を見て、百瀬は待てば良いのだと理解した。白川ルウルウは部屋のすみに立ち、ミスター美波はその横でこぶしを握っている。  マリンは歩くのと横たわるのを繰り返し、なんどかいきんだ。  三十分後、ぬるっと、小さな固まりが頭を出した。途中でなんどか止まりながらも、最後はつるりとタオルの上に落ちた。マリンはその固まりに顔を寄せ、必死になめる。なめるうちにだんだんとそれが子猫だとわかってくる。細くて小さな足が四本、顔らしきものと小さなしっぽ。  しかし全く動かない。  百瀬は目をこらした。そのときだ。  ぱくっと、ちっちゃな口が開いた。  生きている!  白川ルウルウと百瀬は同時に「はあっ」と大きなためいきをついた。  まことは「まだいるぞ」と言い、ミスター美波も「いますね」と言った。こちらはさすがに慣れており、落ち着いている。  それからマリンは何度か立ち上がり、「みーみー」と「ぎゃっぎゃっ」を繰り返し、なんと五時間かかって、計三匹を産み落とした。途中、山田美枝が覗きに来て、「良かったらお茶を」と紅茶とビスケットを置いて行った。まことも百瀬もありがたく口にした。ミスター美波は青ざめている白川ルウルウに「身がもちませんよ」と言って、座らせた。  赤ちゃんは三匹とも時には死んだように固まり、みなをひやひやさせ、急にもぞもぞとうごめき、みなを安心させた。まだ毛が濡れていて、それを母猫が根気よくなめとっている。  百瀬は猫の出産を見るのは初めてである。  マリンは血にまみれながら、必死に子どもをなめ、慈しむ。  生命の誕生とはこのように命がけで、痛みを伴うものなのだ。  頭ではわかっていたが、今、身に染みてわかった。  自分もこのようにして母に命をもらったのだと。  ここにいる柳まことも、ミスター美波も、白川ルウルウも、そして大福亜子も、母親が命をふりしぼって、この世に産み落とした。小松専務もだし、まことの車に待機している土田帆巣も、だ。  まことはひととおり観察すると、「異常はない。マリンは出産が初めてではないから、ちゃんと自分で始末できている」と笑顔で言った。  白川ルウルウは離れた位置で、だまっている。そういえば今日は手を洗えと言わなかった。  百瀬はミスター美波を見た。こちらは生命の誕生に感動して泣いている。なんど見ても感動があるのだろう。思慮が足りない部分があるが、そう悪い男とは思えない。親切心での失敗は、百瀬にも経験がある。味見克子は元気に勉強しているだろうか。  まことは言った。 「猫弁、悪いが携帯貸して」  百瀬が携帯電話をまことに渡すと、まことは自分の携帯にかけた。 「あ、土田くん? 寝てた? 悪いけど、助手席の白い段ボール箱、持ってきてくれる? そう、それ。三階に持って来て」  携帯を受け取りながら、百瀬はいよいよだと思った。  しばらくするとドアが開き、土田帆巣が白い箱をかかえて、ベベルームに入って来た。  美しい顔がたくましい体に付いている。今までかっこよく見えたミスター美波がかすむほどの際立ったルックスだ。  まことは箱を受け取ると、白川ルウルウに言った。 「マリンはあなたの猫ではないけど、二ヵ月、ここに置いてくれないか」  白川ルウルウは返事をしない。 「出産後の移動は避けたい。子猫も生後八週間は母猫から離さないほうがいい。母乳の必要性だけじゃない。母の体温、兄弟とのスキンシップで、社会性が身に付く。心身ともにきちんとした猫に育つためには、必要な時間なんだ」  百瀬は思う。まともな人間になるには、どれくらいの年月母親といるべきなのだろう。  まことはてきぱきと説明する。 「この箱に必要なものが入ってる。今日はいい。母猫は食欲がないはずだ。しばらくすると母乳に栄養をとられるから、しっかりとしたフードが必要だ。わたしもときどき見に来るけど……。ちょっと、白川さん、聞いてるの?」  白川ルウルウはじっと一点を見つめている。  美しい顔で、美しい顔を見つめている。  そして、言った。 「帆巣?」  土田帆巣は白川ルウルウを見た。  ふたりは見つめ合った。  まことはハッとした。ふたりの顔の骨格が、そっくりなのだ。  土田は言った。 「土田とめ子?」  白川ルウルウは静かにうなずいた。  ふたりは一歩も近づかない。  シーンとした空気の中、土田は言った。 「夢、かなった?」  白川ルウルウは再びうなずいた。  すると土田は「ばあちゃんに言っとく」と言った。  白川ルウルウはばつの悪い顔をした。おそらく田舎の親にさんざん迷惑をかけてきたのだろう。一方、土田は無表情で、うれしそうにも悲しそうにも見えない。いきなり母に会うとは、そういうことなのかもしれない。  やがてぽつりと土田が言った。 「俺も、夢、かなった」  土田はジーパンの尻ポケットからくたびれた巾着を出した。その中から小さな何かを取り出し、てのひらにのせて見せた。  古いミニカーだ。トラックで、車輪がひとつ欠けている。 「一回、来たよね?」 「…………」 「学校の帰り道。走って来て、これくれたよね」 「…………」 「俺、かあさんだって、すぐにわかった」 「…………」 「会ったことないけど、俺、わかった」  白川ルウルウはくちびるをかみしめ、トラックを見つめている。  百瀬は土田の発言に希望を見る思いがした。  顔を知らなくても会うとわかるのだ。自分にもいつかきっとこんな日がくる。  土田は言った。 「俺、トラックの運転手になろうって、その時に決めた」 「なれたの?」 「なれた」 「仕事、好き?」 「好きだ」  土田は胸をはった。運動会で一等賞になった子どもが母親に見せる顔みたいだ。  白川ルウルウは菩薩《ぼさつ》のようにおだやかな目をした。 「そうなの、偉い子ね、帆巣」  そう言うと、細く白い手をすっと伸ばし、背伸びをした。一瞬、土田帆巣のあたまをなでたように見えたが、その指は髪についているなにかをつまみとった。  それはひとひらの桜の花びらであった。  ふたりは見つめ合い、微笑み合った。  百瀬は胸がいっぱいになった。  いつか自分も胸を張って母に言いたい。 「あなたのために弁護士になった」と。  そして頭にそっと、手を当ててもらいたい。  涙も抱擁も握手もない、静かな再会だった。  ひとりおいおい泣いていたのは、意外なことに、まことであった。      ○  百瀬は株式会社小松のショールームで小松専務を待っていた。  ショールームには、社員三人で起こした小松食品時代の写真が飾ってあり、小松の歴史が写真と文字でずらずらと語られている。昭和の香りがする。  当時の商品も飾ってある。初期のコショーのパッケージデザインは素朴で愛らしく、今のものよりよほど素敵に見える。  十分ほど待たされたのち、そうぞうしい男女の会話と共に、小松が現れた。意外なことに、若い女性を伴っている。その女性の後ろにはぴたりと中年女性がはり付いている。小松は若い女性に言った。 「こちらが百瀬太郎先生です」  百瀬はびっくりして立ち上がった。ビルマニシキヘビの件で話をしに来たのに、なぜ女性を紹介されなければならないのだろう?  女性は手を胸にあて、頬を赤くして「百瀬先生? きゃあっ」と叫んだ。  小松は言った。 「百瀬先生、山桜クルミさんです!」 「はあ」  そう言われても、百瀬は名前に聞き覚えがない。 「CM契約交渉中なのですが、山桜さん、あなたの大ファンだそうです」 「わたしの?」  百瀬は山桜クルミを見た。どこかで見た覚えがある。そうだ、駅に貼ってある禁煙キヤンペーンのポスターの女性だ。  山桜クルミは色紙を百瀬に差し出すと「サインいただけますか」と言った。 「わたしが? サインを?」 「お願いします」と小松が頭を下げた。  百瀬はよくわからないまま、胸ポケットからボールペンを出し、『百瀬太郎』と書いた。 「やったあ」  山桜クルミはうれしそうにぴょんっとはねた。 「わたし、アメショーを飼っているんです」 「そうですか」 「あちこちの猫ブログを覗くのですけど、先生って有名人ですよ」 「有名?」 「猫界のカリスマ弁護士、百瀬太郎!」 「はあ」 「猫弁先生の画像が見つからなくて、どんな人だろうって、あれこれ想像していたんですけど」  山桜クルミは百瀬を頭から靴までさーっと眺め、「さすが良い靴をはいていらっしゃる」と言った。「さっき小松専務に聞いたんですけど、この会社の顧問弁護士もなさってるんですって?」 「え?」 「ときどき先生に会えるんだったら、CM引き受けようかなあって」  百瀬は小松を見た。小松はたのんます、というふうに、ウインクを連発する。  いつもはこれくらいの口裏合わせにつきあうのだが、味見克子の一件で、親切について慎重になっている。だまっていると、小松が誤魔化《ごまか》すように「さ、おふたり並んで。写メ撮ってあげましょう」と言った。  すると付き入らしい中年女性がダメ出しをした。 「山桜クルミには肖像権《しょうぞうけん》がありますので」  すかさず山桜クルミが言った。 「うちのデジカメで撮ります。今日わたしのブログにアップしようっと。なら、良いでしょう?」  とたんに付き人は笑顔になり「そうですね」と言いながら、デジカメを取り出して構えた。山桜クルミは百瀬の腕にしがみつき、付き人がパチリと撮った。  百瀬の肖像権は頭にないようだ。  やがてやかましい女たちが消え、小松と差し向かいになり、やっと本題に入れた。 「ビルマニシキヘビのことですが」と切り出すと、小松は声をひそめて「山桜クルミがね、ヘビ苦手なんですよ」と言った。 「三年間のCM契約にこぎつけられそうなんです。三年間ですよ。ひょっとすると彼女、わたしの部屋へ来るかもしれないじゃないですか」  小松はにこりと笑い、きっぱりと言った。 「ヘビは困ります。まこと先生の非道は許せませんが、なかったことにしてあげます」  なんとまあ……。  良かった。百瀬はそう思うことにした。  小松はにこりから一変、今度はうすら笑いを浮かべて言った。 「ご相談なんですけどね」  百瀬は身構えた。新たな依頼だろうか? 「先生のおかげで不動産屋から予約金が戻ります。しかしこれはわたしが先生に持ち込んだ依頼ではありません。先生から言い出したことで、言ってみれば、先生の親切心というか、ボランティア活動です。着手金も報酬金も無しでいいですよね」  百瀬は話を聞きながら、だんだんと意識が小松から遠のき、小松の顔の後ろ、約二十メートル先のディスプレイに焦点が合った。  立派な額におさまった社長の写真が見える。小松の父だ。福沢諭吉《ふくざわゆきち》に似て口がへの字で、頑固そうである。  そういえば、死体の身代金事件のシンデレラシューズのショールームには、社長の写真も会長の写真もなかった。現在扱っている靴だけを飾ってあり、今を生きようとする会社であった。  小松はひとり話し続ける。 「そしてまさに依頼の件ですが、わたしは先生に着手金を払いました。がしかし、ヘビを取り戻す必要はなくなりました。つまり、先生は仕事から解放されたわけです」 「なにをおっしゃりたいのですか」 「不動産屋は予約金を返してくれました。依頼を撤回したので、着手金も返ってくるかと思いましてね」  百瀬はまことに同情した。こんな男とずっとつきあってきたのだ。ボイスレコーダーくらい用意するのも道理だ。 「小松さん、秋田に行く用事はありますか」 「秋田? なんでまた?」  良い靴をお履きなさいと言いたかったが、ぐっとこらえてやめておく。  もちろん、ここは譲ってはいけない。のちに小松とつきあう弁護士が気の毒だ。悪しき前例を作ってはいけない。 「着手金は返金できません。仕事はすでに発生しています。報酬金は要りません。ほかになにかご質問はありますか?」  小松は一瞬だまったが、すぐにははははと笑い出した。 「言ってみただけですよ。冗談です」  百瀬は小松ビルを出て、青空を見上げた。雲がぽかっ、ぽかっと浮かんでいた。      ○  桜が満開だ。  朝、出勤する百瀬の目に、奇妙な光景が映った。  事務所の黄色いドアの前に、ランドセルを背負った少年がおり、セロテープでなにやら貼ろうとしているが、うまく接着できないらしい。 「貸してごらん」  百瀬は少年から半紙を取り上げると、ドアではなく窓ガラスに貼った。   猫弁 猫界のカリスマ弁護士  と書いてある。百瀬は少年に微笑んだ。 「このドア、昨日ワックス塗ったんだよ。すべすべして紙が貼れないようになってる」 「あのおばさん?」 「七重さんって言ってね、このドアは彼女の管理下にあるんだ。とてもだいじにしてくれてるんだよ」 「ふーん」  少年は黄色いドアを見つめた。 「きみは近くに住んでるの?」 「そんなに近くない」 「学区は?」 「学校に言いつけるの?」 「そうじゃない。もう八時十五分だから、間に合うか心配してるんだ。新学期、始まってるよね」 「ぼくあのときおどろいた」  少年はいきなり話を変えた。 「ぼくさ、今までずっと、あの太ったおじさんが猫弁だと思ってたんだ」 「ああ、野呂さんのこと」 「猫弁はあなたで、あのおじさんは部下なんだよね」 「部下じゃないよ。上も下もない。ここで一緒に働いているひとだよ」 「えっ、上も下もないの? じゃあ、あのおばさんは?」  百瀬は上を見た。本日も快晴だ。  少年もつられて上を見た。飛行機もヘリコプターも飛んでない。少年はつまらなそうに百瀬を見る。  百瀬は少年を見つめて言った。 「男女平等がこの国の鉄則だってことは、知ってるよね?」 「うん」 「でもわたしは少し違う考えを持っているんだ」  少年は不思議そうな顔で百瀬を見つめる。 「女性は男性よりちょっと上なんじゃないかって、感じてる」 「へえ、そうなの?」 「わたしの個人的見解だよ。社会科のテストでそう書いたら×をもらう。だけど、この事務所ではあのおばさんが一番えらいんだ」 「そうなんだ」 「もう学校に行きなさい」 「あの、あのさ」 「なに?」 「前にここ、赤いペンキでらくがきされたでしょ?」 「うん」 「あれはぼくじゃない」  百瀬はにこっと笑い、「うん、わかってる」と言った。  少年はほっとした顔をして、走って行った。  中に入ると、テレビの大音量が響き、その前で七重がかなしばりにあったように立ちすくんでいる。 「先生! 録画ってどうするんでしたっけ」  リモコン操作ができずに音量を上げてしまったらしい。  百瀬は七重が放ったリモコンをキャッチすると、音量を下げて録画を始めた。  画面を見ると、小松専務と山桜クルミが肩を並べて記者会見を開いている。  そのうしろに横断幕がおり、大きな文字で『小松は主婦の秘密兵器です』と書いてある。どうやらCM契約が成立したらしい。 「ここにきたあの人が出てますよ! 山桜クルミと!」  七重は興奮している。 「山桜クルミの横にいるこの男と、わたしは口をききました! 間接的に山桜クルミとしゃべったことになりませんかね?」  七重はめちゃくちゃうれしそうだ。  百瀬は気になった。『小松は主婦の秘密兵器です』は、七重が言った言葉だ。それをだまって借用されたことに、多少なりとも不満はないのだろうか。 「小松は主婦の秘密兵器です、というコピーをどう思いますか」 「うまいこと言うじゃありませんか。さすがです、小松さん」  七重は自分が言ったことを忘れてしまったようだ。さすがに女性だ。せこくない。  いつのまにやら野呂が出勤し、七重と百瀬の話を聞きながら、パソコンを立ち上げて、「先生!」と叫ぶ。 「山桜クルミのブログに、先生が載っていますよ!」  七重は驚いて野呂のパソコンをのぞいた。芸能人の山桜クルミが百瀬太郎の腕にしがみついて、うれしそうに笑っている。 「うちの先生が、山桜クルミと!」  七重はモニターを凝視し、「そろそろわたしも美容院に行かないと」とつぶやいた。  ブログにはピンクの文字で『大好きな猫弁先生とツーショット! いぇい』と書いてある。七重は百瀬に尋ねた。 「先生、山桜クルミにさわられた[#「さわられた」に傍点]んですか」  百瀬はデスクでもう仕事を始め、「ええ」とそっけなく返事する。 「山桜クルミって、どんなでした?」  どんなと言われても、さわがしい人だったというのが第一印象だ。そうだ、そういえば、「ツルツルぴかぴかしていました」と言っておく。 「やはり若いって肌が違うんですね」  七重がためいきまじりにそう言うので、百瀬は思い出し、鞄から小さな丸いケースを取り出すと、七重に渡した。 「こういうの、七重さん、使いますか?」  七重は飛びついた。 「これ、十歳若返るっていう、ミスター美波のミラクルジェルじゃないですか!」 「仕事でお会いする機会があって、おわびにくれたんです」 「おわび?」 「いえ、あいさつにと」 「わーい」  七重はふたを開け、匂いをかいでいる。 「先生、たてつづけに芸能人に会ったんですね。弁護土なんですから、そうでなくっちゃあ。どうでした? ミスター美波は」  百瀬は仕事をしながら適当に答えた。 「ツルツルぴかぴかしていました」  うそではない。そんな印象だ。  七重は「粘土みたいな匂いがしますよ」と言いながら、ミラクルジェルを頬にすり込んだ。「十歳若返ったって四十ですからね。むなしい気もしますが、背筋を伸ばすとさらに若返るんですって」などと言いながら熱心に手を動かす。 「ワイドショーでミスター美波の生い立ちを特集してたんですけどね」  話しながら七重はジェルを手の甲にもつけた。 「彼、おとうさんが酒乱で、おかあさんがなぐられて泣くのを見ながら育ったんですって」  百瀬は仕事の手をとめた。 「彼ね、いまだに女性の涙を見ると、いたたまれないんですって。女性の笑顔が見たい。それが美容コンサルなんとか、っていうのをやる、モチなんとからしいですよ」  野呂が「モチベーション?」というと、「そうそれ」と言った。  百瀬はミスター美波に深く同情した。母がなぐられるのは、こたえるだろう。人生観を変えてしまうくらいの痛みに違いない。  七重がお一人様二点限定のコロコロペーパー特売品を買いに二キロ先のホームセンターへ行っている間に、百瀬は密室猫妊娠事件のてんまつを野呂に報告した。 「出産したばかりのメインクーンはしばらく白川さん宅で預かることになり、まこと先生がかかりつけの獣医となります。家出していたベベは、土田帆巣という男性が引き取ることになりました」 「土田帆巣?」 「白川ルウルウさんの息子さんです」 「あのひと、息子がいたんですか!」  百瀬はうなずいた。 「気になっていたので、会わせてみたら、やはりそうでした。ふたりともかすかですが、同じ地方の、おそらく木曾《きそ》あたりだと思いますが、独特のアクセントがあります。記憶力の偏りとか、顔立ち、骨格などの相似も見られました。いくつかのピースはあったのですが、あいまいな疑いに過ぎませんでした。決定的だったのは野呂さんのお話です」 「わたしが役に立ちました?」 「土田とめ子という名前は野呂さんから得た情報です」 「土田とめ子は……」 「白川ルウルウの本名だったんですよ」  野呂は左手の薬指を見た。指輪はないが、まだ痕が残っている。  百瀬は言う。 「わたしは彼女を冷たい人間だとは思いません。息子さんを生んだけど、育てられない。ベベを飼ったけど、さわれない。愛がないのではなく、どうやって接したらよいかわからないのです。息子さんのことも、ベベのことも、彼女なりに大切に思っていたんじゃないでしょうか」 「なぜそう思うんです?」 「にんじんです。彼女はベベの好物をちゃんと知っていました。だからこそ獣医に見せ、妊娠が発覚、わたしに依頼し、結果的にベベと再会できたんです。彼女に愛情があったからこそです」  言いながら百瀬は白川家を思い出す。ベベを閉じ込めていたのは、絨毯のためではない。指輪の誤飲がショックで、愛するがゆえに、怪我や病気を極端に恐れたのだろう。  野呂のひざに黒猫ボコがひょいととびのった。 「彼女の過去には、本気の恋愛もあったと思いますよ」と百瀬は言った。  すると野呂は急にそわそわし、「帆巣くんは何歳ですか」と聞いた。 「三十三歳です」  野呂はほうっとためいきをつき、珍しくボコの背中をなでながら、「わたしはおとうさんじゃない」とうれしそうにつぶやいた。  百瀬は青い鳥こども園の遠山健介を思い出した。  父親であるということは、そんなに荷が重いことだろうか。  自分はいつか父親になれるだろうか。なれるものならなってみたい。どんなに重い荷も背負ってみたい。 「あのひと、このあとどうするのでしょう?」と野呂は言った。 「二ヵ月したら、あずかっている猫の親子をミスター美波に返し、もう猫は飼わないそうです」 「そうですか」 「正々堂々、女優業をきわめるとおっしゃっていました」  野呂は黙ってしまった。百瀬は丁寧にお茶をいれ、野呂に差し出した。野呂はひとくち飲み、「うまいですなあ」と感嘆し、思い出したようにこう言った。 「やきもちやかれませんか?」 「なんのことですか」  野呂は自分のパソコンを指差した。  にこにこした山桜クルミと、仏頂面《ぶっちょうづら》の百瀬太郎の画像がアップされている。 「こんなおじさんに、誰もやきもちゃきませんよ」と百瀬は言い、自分のデスクに戻って仕事を再開した。  野呂はあきれた。大福亜子を心配したのに、百瀬は山桜クルミのファンを心配してる。恋愛|音痴《おんち》もいいところだ。まあ、自分も人のことは言えないが。  野呂は土田とめ子を思った。自分は弁護士の夢をあきらめてしまった。彼女は六十を過ぎても夢を追いかけている。  さわやかな敗北感を感じた。  あらためて薬指を見た。これから川をさらっても、見つからないなと思った。 [#改ページ] [#見出し]   第六章 くるくるキャット  丸山商事の喫煙ルームで、春美はスマートフォンの画面を亜子に見せた。  山桜クルミと百瀬太郎のツーショツトだ。 「よかったじゃないですか」と春美は言った。「ほかの女にとっても魅力ある男だと立証され、百瀬太郎に付加価値が生まれました。おぎゃあ」  亜子はじーっと画像を見つめている。たった一度しか触れたことがない百瀬の腕に、自分よりあきらかに美しい女性がはりついている。 「どいてほしいんですけど」と亜子は画像に語りかけた。「そこはわたしの席です」  春美は危険を感じてスマートフォンを亜子から離し、もう一度ツーショットを見る。 「この仏頂面、なんとかなりませんかね。ここでさわやかに笑顔を作れれば、ミスター美波や法律王子のようにアイドルになれるのに」  法律王子とは、タレントのようにテレビで活躍する弁護士・二見純《ふたみじゅん》である。一時なりをひそめていたが、最近また活躍し出した。パートナーの弁護士がいるそうだが、こちらはテレビには出ず、顔も公開していない。会った依頼人の証言によると、法律王子をしのぐハンサムマンらしい。なぞの「S氏」としてこれまた人気があり、色白で夜行性といううわさだ。 「百瀬太郎が有名人になれば、出演料とか講演料とか入って、高所得者になって、妻の亜子先輩はセレブになって、わたしは」 「わたしは?」 「今ちょっと計画変更中なんです」 「梅園さんの妻の座狙いをやめたの?」 「彼は夫より舅《しゅうと》が向いていると気付いたんです」 「梅園さん、息子さんがいるの?」 「推測ですけどね。七十三年も生きてるんですから、どこかに息子のひとりやふたり、いるんじゃないかしら」 「気の遠くなる話ね」 「亜子先輩と猫弁太郎のゴールとそう変わらないと思いますよ」  そうは言ったが、春美には確信がある。亜子が先に幸せになるだろうと。  策を弄する自分は、無限に選択肢が広がって、どれが一番得かを考えているうちに、どんどん時間が過ぎてゆき、悪くすると計算しながら人生が終わってしまう。結婚相談所の会員の中にもそういう人間がいる。もっともっとと欲張っているうちに、適齢期を過ぎてしまう人たち。  ああなってはいけない。いつか決めなくてはと思う。 「亜子先輩、このひとに決めたって瞬間、覚えていますか」 「え?」 「百瀬太郎に決めた瞬間」 「中学生の時、法廷であのひとが話すのを見て」 「恋に落ちたんですか?」 「落ちるって感じではないの。彼の言葉をひとことひとこと聞いているうちに、好きだなあ、いいなあ、この人と思い始めて、一段一段階段を上がるみたいに、好きな気持ちが積み上がっていって、胸がどきどきわくわくして」 「どきどきわくわく?」 「発見したような気持ちよ。こんな人いるんだ! って」 「コロンブスの新大陸発見みたいな?」 「コロンブスは新大陸を好きだったのかしら? ただそこに、あった[#「あった」に傍点]ってだけでしょう? わたしは好きなものを発見したのだから、うれしさではこっちが上だと思う」  春美はあきれた。新大陸はあった[#「あった」に傍点]だけでじゅうぶんすごい。あんな貧乏弁護士より下なわけないではないか。  亜子は夢見るように言う。 「弁論が終わった時には大ファンになっていたわ」 「ファン心理はわかります。でもそれで結婚まで考えられますか」 「結婚は、カーテンかな」 「カーテン?」 「アパートに一度だけ行ったことがあるの。つきあう前に、猫をもらいにね。狭い部屋に古いカーテンがかかってて、何度も洗濯したからか破けていて、そこをちくちくつくろってあったの。縫い目がね、きちんとしてたの。丁寧に生きてる人だなあって。こんな人と一緒にいたら、気持ちがすーっと透き通って、気分がいいだろうなって思った。つきあってくださいって告白するつもりが、つい、結婚してくださいになっちゃった」  春美は再びあきれた。カーテンをつくろったあと? 「苦労必至」と予測すべきところを「気持ちがすー」だなんて。  春美は寒気がし、気持ちを引き締めた。こうなってはいけない。適切な判断力を持っているうちに道を選ばなくては。  夜、春美は十八平米の自宅マンションで、秋田土産の靴クリームをにらみながら電話をかけた。相手は落ち着き払っている。 「インターネットで売りたいというのか? なるほどな」  高齢の女性と聞いていたが、インターネットに不信感は持っていないようだ。これならばいけるかもと思い、「はいそうなんです、ぜひに」と言う。 「どうして売りたい?」 「良い商品だからです」 「使ってみて、どうだった?」  春美は一瞬考えて、正直に言った。 「革の靴を持ってないので、試しにお財布に使ってみました」 「ほう、革の靴を持ってないのか。それはどうして」 「高いからです」 「お前さん、年齢は? 職業は? 収入は?」 「二十三歳、結婚相談所職員。手取り十八万、家賃八万八千円、親への仕送り二万」 「なるほど革の靴は買えないね」 「お財布はぴかぴかになりました。就職が決まった時に親が買ってくれた革のお財布です」 「その財布、何年使ってる?」 「五年です」  少し間があって、相手は言った。 「革の靴を持ってないお前さんに靴クリームは必要ない。お前さんに必要ないものが、世間で売れると思うかね」 「お金持ちはいっぱいいます。彼らは革の靴を履くし、靴クリーム五千円は高くない買い物です」 「金持ち相手の商売は魅力がないね」 「は?」 「いいことを教えてくれた。これは靴クリームではなく革製品全般に使えると、そういうコンセプトで売ったらどうかね」 「…………」 「若くて金がなくても、ひとつくらい革製品は持っているだろう」 「はあ」 「金がない人間にとって革製品はだいじなものだ。使い捨てにはしないだろう?」 「はあ」 「手入れをするグッズは、金がない人間ほど必要としていると思わないかね」 「なるほど」 「買いやすくするため、量を減らして、五百円にする」 「なるほど」 「寿さんとやら、新しい商売を始めるには、何が必要だと思う?」  春美は少し考えて、言ってみた。 「資金なら、なんとかなると思います」 「まずは思いつきだ。そこがないとだめだ」 「はあ」 「お前さんはいいとこまで来てる。しかし思いつきだけではだめだぞ。次に必要なのは」 「マーケティング?」 「思考の蓄積だ。ヒントはあげた。とことん考えたら、また電話しなさい」  電話は切れた。  春美は「シコウノチクセキ」とつぶやき、しばらくぼうっと座っていたが、ふと立ち上がり、歯を磨き始めた。  磨きながら、秋田で弟子入りしたいと思った。靴職人としてではなく、起業家としてだ。梅園の資金と結びつければ、ビッグビジネスに発展するかも。  口の中がさっぱりすると、床に散らばっている雑誌に目を通し始める。一日の最後に必ずやることだ。  雑誌はすべて発売から一週間、あるいは一ヵ月経ったもので、表紙にマジックでナイス結婚相談所と書かれている。待合室に置かれている雑誌類は時期が来ると処分するので、すべていただいて帰ってくる。女性週刊誌やファッション誌、経済誌などなど、さまざまだ。  いまや結婚相談所の客は年齢が幅広い。「息子の嫁を探しに来た」という初老の女性もいる。所内で「代理母」と言えばそういう客を指す。少数だが「父に再婚相手を」と高校生が来ることも。だから漫画誌も置いてある。雑誌は大衆を知る参考書だ。春美はくだらないものまでくまなく目を通す。  面白い記事を見つけた。  女性週刊誌の『今月の都市伝説コーナー』にこんな見出しがある。  【イケメンドライバー、相棒は美ネコ】  大型長距離トラックの運転手で、すばらしくハンサムな男がいて、なんと助手席に大きな灰色猫を乗せているというのだ。高速道路のインターでときどき目撃され、複数のパパラッチが追いかけているらしい。目撃証言は以下の通り。 「長距離バスで追い越すときに見た。大型トラックの助手席に大型のネコがいてあくびしていた」 「インターの売店裏手の公園で、大きなネコと俳優の金城武が夕涼みをしていた。映画の撮影かと思ったが、カメラは見当たらなかった」 「インターの駐車場で夜、大型トラックの運転席で眠っている男を目撃。大きなネコが毛布のように寄り添っていた」  記者の情報によると、イケメンには美人の恋人がいて、歯科医だか外科医だそうだが、情報源は定かでないらしい。 「こんなあいまいな話は商売にはつながらない」と春美は雑誌を放った。  次に手にしたのは文芸誌だ。【賞金五十万】の文字にひかれて読んでみる。  大学生が卒業制作として童話を書いたらしい。教授の推薦で小さな文学賞に送ったところ、受賞して絵本になるそうだ。タイトルと絵を見て春美は吹き出した。 『くるくるキャット夜の森』というタイトルの下に、全身天然パーマの猫のイラストが描いてあり、それがなんと、黒いふちの丸めがねをかけているのだ。 「まるで百瀬太郎じゃない」  あらすじが載っている。  全身天然パーマの猫がいました。毛がくるんくるんです。  その姿があまりに変わっているので、街でいじめられ、石を投げられ、それが目に当たって、視力が落ちてしまいました。目が見えないと街で生きていくのは危険です。  くるくる猫は森に逃げ込みました。目の不自由なくるくる猫にとって、森はいつも夜。夜の森はくるくる猫をやさしく受け入れてくれました。  あるとき、巣から落ちたきつつきのひなが、寝ている彼のくるくるの毛に引っかかり、命びろいしました。ひなはいいます。 「おうちに帰りたいよう。おかあさんに会いたいよう」  くるくる猫は木にのぼったことがありません。だいいち、高所恐怖症です。しかし、ひなのために勇気を出すことにしました。「毛にしっかりつかまっていなさい」とひなに言うと、木に爪をたて、がんばって木にのぼり、きつつきのおかあさんにひなを返してあげました。  おかあさんとひなは抱き合って再会を喜びました。  感謝したおかあさんきつつきは街へ飛んでいき、めがねやさんに、めがねを作ってくださいと頼みました。するとめがねやさんは、きつつきに売るめがねはないよと断りました。きつつきはがっかりしました。あきらめて帰ろうとしたら、めがねやさんのおくさんが追いかけてきて、これを持っていきなさいと言って、古いめがねをくれました。  きつつきはありがとうと言い、それをくわえて森に帰り、猫にプレゼントしました。  おかげで、くるくる猫は目が見えるようになりました。すると森には昼と夜が交互にくるようになりました。  昼をもらったくるくる猫は、もっとみんなの役に立ちたいと、はりきります。  迷子の子リスを見つけると、母リスのもとに届けます。とかげになりたいヘビに出会うと、「足がないのもかっこいい」とはげまします。風邪をひいたクマがいれば、どんぐりでスープを作り、おうちに届けて「だいじょうぶ」と声をかけ、ケンカをする猿と蟹《かに》には、「つまらないからやめなさい」と言いました。  つねに自分の得を考えず、みんなのしあわせを考え、人から誉められることを望まず、人から苦にもされず、くるくる猫は森で静かにいつまでも笑って暮らしましたとさ。  春美はあきれた。 「雨ニモマケズのパクリじゃん。こんな話で五十万?」  受賞者の写真を見た。こけしのような顔の平凡な女子大生だ。 「実際にこんな人がいたんです。平成の宮沢賢治《みやざわけんじ》です。その人にささげる気持ちで書きました。受賞はすごくうれしいです。田舎のじっちゃんが喜びます。これからはバイトをしながら書き続けます」  それがこけしの受賞のことばだ。  大学を出ておきながら、就職もせずに夢を追う。なんと呑気な。わたしはもっとちゃんと生きる。春美は雑誌を放った。  小松は自宅のリビングで新聞紙を放った。  大手新聞、経済新聞、業界新聞、地方新聞、子ども新聞まで買い占め、一紙一紙確認したが、小松のイメージ戦略をとりあげてくれたのは食品業界新聞だけで、しかも山桜クルミのアップの写真のみ。あれだけしゃべったのに「小松は主婦の秘密兵器です」すら載ってない。 「くそっ」毒づきながら飲みかけのバーボンを新聞の上に置くと、グラスの端から黄色いしっぽが覗いている。あわててグラスをどかして見ると、なんと、黄色いヘビの写真ではないか。  四国子ども新聞の第一面である。  紫外線を通さない特殊なガラスを使った飼育施設で、大勢の客に囲まれ、悠然《ゆうぜん》ととぐろを巻いている。見出しは『坂本龍一クンは本日もごきげんです』だ。  動物園の園長は笑顔でインタビューに答えている。 「ある食品会社の役員さんが、子どもたちのためにと寄付してくださいました。仲介した獣医さんがおっしゃるには、彼はこのヘビを愛情を持って育てていたそうです。こちらでも大人気で、お客さんが三倍に増えました」  小松は写真を見ながら「おい、坂本龍一」とつぶやいた。そしてグラスのあとが丸く濡れてしまった部分に、そっとティッシュを当てた。      ○  喫茶エデンで百瀬は珈琲を飲みながら、亜子を待った。  本日は平日で、野呂も七重も事務所で働いている。亜子と会うために、午後二時間の休みをとらせてもらった。亜子は半日休みをとってくれた。  秋田の見送り以来、初めて会う。  どんな靴を注文したのだろう?  それはいつできるのだろう?  受け取りに行く時は絶対自分も同行する。しばらく倹約して金を貯め、グリーン席ふたつをとろう。亜子の都合がつかなかったら自分ひとりで取りに行く。そのときは自由席だ。時間が許せば夜行バスにしよう。結婚資金をためねばならない。  ちりん、とドアベルが鳴り、女性が入って来た。  一瞬、違うと思った。が、女性はまっすぐにこちらに向かってきて、「こんにちは」と言った。百瀬は思わず立ち上がって、頭を下げた。あまりに相手が神々しく見えたため、おじぎをしてしまったのだ。  すると赤い靴が目に入り、どきっとした。  すぐにわかった。エンゲージシューズに違いない。  亜子はにこやかに「おかげさまでぴったりの靴があって、いただいてきました」と言い、両足をきちんとそろえて、百瀬に見せた。 「すばらしい履き心地です。似合ってますか?」  百瀬は婚約者のかわいらしい足に見惚《みほ》れた。 「すてきですよ」 「赤い靴なんて子どものとき以来で、合う服があるか心配だったんですけど、一番似合う服を選んで着てきました」  そう言って、亜子は席に座った。  そうか。エンゲージシューズに一番似合う服なのか。  やわらかな素材の白いブラウスに、ふわりと広がるうぐいす色のスカートをはいている。いつもとどこがどう違うと聞かれても説明できないが、まぶしい。靴のせいか服のせいかわからないが、たたずまいがいつもと違う。落ち着きがある。  それにしても唐突であった。  エンゲージシューズができてしまっているなんて! 「座ってください」と亜子は言った。  百瀬は座った。立ったままでいたことに、やっと気付いた。  注文をとりにきたウェイターに亜子は「アイスミルクティー」と言った。  百瀬とウェイターははっとして一瞬目があった。目があったけど、「あの子と同じだね」などと言い合う仲ではない。  百瀬は亜子に尋ねた。 「秋田はいかがでしたか」  あれもこれも、聞きたいことばかりだ。  亜子はしばらくだまっていた。亜子の頭には、銀の鈴から始まった二日間が、パラパラ漫画のように浮かんで消えた。さいごに残ったのは三千代の言葉だ。 「今日のような思いを二度と味わいたくなかったら、はっきり伝えたほうがいい。今回はがっかりした、頭に来たと」  亜子はその言葉を噛み締めた。目の前にいる百瀬は、好奇心いっぱいの眼差しで亜子の言葉を待っている。  亜子はにっこり笑って言った。 「すごく楽しかったです」  新幹線のグリーン席は初めてだったこと、座り心地が抜群だったこと。秋田の駅で待っててくれた木村さんと田村さん、一緒に食べた稲庭《いなにわ》うどん、かわいらしい『三千代の靴』のお店、庭を走っていた小川、おしのびで靴を作りにきたデンマーク大使。すべてがファンタジーのようで、楽しい経験だったと語った。  ウェイターはミルクティーを作りながら、あのふたり、以前と違うと感じた。  いつもはおとなしい女性がずっと話している。もじゃもじゃ頭は口をはさまず、食い入るようにそれを聞いている。ささやかな違いだが、女性に自信がつき、なにやら大人びたように見える。  ミルクティーが来て、亜子は一瞬だまった。すると百瀬はやっと発言した。 「三千代さんは、大福さんのこと、なんておっしゃいました?」 「百瀬さんはなんと言われたのですか」 「わたしはバランスが悪いと言われました。頭を効率よく活かすには、心がヤワすぎると」  亜子はくすりと笑い、百瀬の目を見て言った。 「わたしが三千代さんに言われたことは、百瀬さんには内緒です」  百瀬は驚いたような顔をし、そのあと少しさびしそうな顔をした。  亜子は幸福だった。  三千代は言った。 「あなたには人を幸せにする才能がある。百獺くんはラッキーだ」と。  この言葉は今後の自分を支えてくれるお守りだ。百瀬にだって教えない。自信がなくなったら反芻しよう。わたしは百瀬さんを幸せにできるのだと。  亜子はミルクティーをひとくち飲み、あらためて言った。 「エンゲージシューズをありがとうございます。そして秋田の旅もありがとうございます」 「喜んでいただけで、うれしいです」と百瀬は言った。  亜子はいったん目を伏せ、少し言いにくそうなそぶりを見せ、そのあと思い切ったようにこう言った。 「ひとつ、おわびがあるんです」  百瀬はどきっとした。  ひょっとして、婚約破棄?  ひょっとして、ミスター美波と?  ひょっとして、百瀬はあなたにふさわしくないと三千代に言われた?  つじつまがあってしまう。ような気がする。  百瀬は緊張して次の言葉を待った。  亜子はかしこまって言った。 「飛行機が苦手だと言いましたが、あれはうそなんです」 「え?」 「少しでも長く百瀬さんと一緒にいたくて、うそをつきました」  百瀬は混乱した。頭の中がまっ白だ。 「ごめんなさい」と亜子は頭を下げた。  百瀬は亜子の発言を反芻した。  飛行機が苦手ではない。  百瀬と一緒にいたかった。  ぞくっと、寒気がした。  ひょっとすると、自分はたいへん大きなミスを犯したのだろうか?  それはひじょうにものすごくめいっぱいやばいことではないだろうか?  心臓がばくばくする。  考えよう。百瀬は前頭葉に空気を送るべく、上を向こうとした。  すると亜子は言った。 「上を向かないでください!」  ウェイターもはっとするような、よく通る声であった。  百瀬はあせって亜子を見た。  亜子は落ち着き払って言った。 「わたしは飛行機が苦手ではないと、その事実だけを頭に入れて、あとはもう考えないほうがいいです。わたしは秋田に行けて楽しかった。最高の靴をいただき、百瀬さんに感謝している。今日はこの気持ちだけをまっすぐに受け止めてください」 「大福さん」 「今は万事休すではないので、上を向かないほうが身のため[#「身のため」に傍点]です」  思わず「はい」と、百瀬は言った。  百瀬の胸はまだどきどきしている。が、このことについて頭を整理するのはよそう、そう決心した。なぜなら亜子は女性で、女性は偉大だからだ。  百瀬はさめた珈琲を飲み、亜子はミルクティーを飲み、しばらく無言であった。  別の客人の珈琲をいれるサイフォンの音が聞こえて来る。  しずかだ。  百瀬は感じていた。無言の時間が心地よいと。女性とふたりでいて、何も話さなくても、あせらない。相手もきっと心地よい時間を過ごしてくれている。そう思えるのは百瀬史上初で、奇跡のように思える。  彼女に出会えてよかった。彼女に見つけてもらえて、自分はラッキーだった。  突然、百瀬は「あ!」と叫んだ。  こんどは亜子が驚いた。  百瀬はあせった顔でビジネス鞄を開け、必死になにかを探している。探しものが見つからないようで、仕事のファイルやら、ノートやらを全部出してテーブルに載せ、鞄に腕を突っ込んで中をまさぐっている。  亜子は心配になった。財布でも落としたのだろうか?  やがて百瀬はほっとしたように手を出すと、握っているそれを亜子の目の前に置いた。  指輪のケースだ。年季が入っているようで、紺のビロードの一部が薄くはげている。 「事務員の七重さんが、大福さんにって」  亜子は指輪ケースを見つめたまま、目をまーるくしている。  百瀬は言った。 「わたしは要らないって言ったんですけどね。七重さんがだめですって。婚約指輪は絶対必要だってきかないんですよ。これは買ったものじゃなくて、七重さんのお古だそうです。ご主人から以前もらったものとおっしゃっていました。サイズが合わなくて、はめたことはないそうで」  亜子は百瀬の言葉を聞いているのかいないのか、じっとケースを見つめていたが、やがて手に取って、蓋を開けてみた。  シンプルなプラチナリングに、ぽつんと、まあるい真珠が付いている。 「余計なお世話じゃないですか」  野呂はパソコンで経理事務をしながら言った。 「わかってますよ」  七重は猫トイレの掃除をしながら、言い返した。 「あれは七重さんのエンゲージリングですか?」 「まさか。結婚する前、夫はお金がぜんぜんなかったものですから、婚約指輪は浅草のお土産屋さんに売ってた珊瑚の指輪です。しょっちゅうはめていましたけど、つるっとね、排水口に消えました」 「それは残念でしたね」 「あの指輪は別です。昔、ちょっとね、嫌なことがありまして」 「息子さんの?」  七重は立ち上がり、腰をのばした。 「ええ、息子が命を落としたときは、絶望しました。お通夜もお葬式ものりきれたんですが、納骨《のうこつ》ができないんです。長いことだらだらと悲しんでいましたよ。ある日夫がね、ひょいっと、買って来たんですよ。そして言ったんです、お前はあの子だけのおかあさんじゃない。あとふたりいるんだから、しっかりしてくれと。まったくもう、色気のない言葉です。でもね、夫はそういうお店にひとりで入れる男じゃないんです。よくぞ勇気を出して買って来てくれたと。なんだかもうそれは、月の石ころくらい貴重に思えましたよ」  野呂はふと、二十万で買った結婚指輪を思い出した。あのときはたしかに勇気が要った。  七重はしみじみと思い出すように言った。 「結局サイズが合いません。きつくて入らない」 「サイズは直せるでしょう」 「直すとはめてしまうじゃないですか。排水口が怖いですからね、箪笥《たんす》にしまってときどき眺めて、心の支えにしましたよ」 「そんなだいじなものを、いいんですか?」 「だいじなものだから、意味があるんです。先生には内緒ですよ」 「七重さん」 「今の人はね、ティーファニー[#「ティーファニー」に傍点]ですよ。あんな時代遅れのデザイン、どうせしやしませんよ。でもね、女はやはり指輪です。婚約という一生に一度のできごとに、靴じゃいけません。形として指輪があると、少しはお相手の気が済むんじゃないかと思いましてね」  野呂は思った。自分があげた指輪は役に立たなかったと。それでも七重の思いがいじらしく、ていねいに日本茶をいれて差し出した。  七重はお茶を飲みながら言った。 「余計なお世話ってわかってますよ。でもね、余計なお世話はたいがい、親がやるものです。百瀬先生には親がいないんですから、わたしが代理でね、余計をするんです」  野呂は目を真っ赤にして力説した。 「カントは言ってます。善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。最善の努力をもってしても、何も達成しない場合でも、善意はそれ自体がまったき価値をもつものとして、宝石のように光り輝くと!」  七重は野呂を見つめた。 「なんですって? 関東が? 全員全員って?」 「いえ、なんでもありません」  野呂はパソコンにもどった。  亜子は無言で見つめていた真珠の指輪をそっと手に取り、左手の薬指にはめた。ぴったりだ。 「はまった!」百瀬は驚いた。  亜子はてのひらをかざして指輪をながめている。  百瀬は声がかけられない。女性がそうやって指輪を見つめる姿を見るのは初めてで、それはなんだか独特の仕草で、緊張感ただよう空気を感じた。  突然、亜子の目からぽろぽろと涙がこぼれた。  百瀬はひどくあわてた。  亜子が泣くのを初めて見る。どうしよう?  助けてほしくてウェイターを見たが、見て見ぬ振りをしている。お前の彼女だろう、なんとかしろと目が言っている。  亜子はバッグから黄色いハンカチを出して目をおさえ、言った。 「すごくうれしい」  目と鼻の頭をまっ赤にして、亜子はいつまでも指輪から目をはなさない。  百瀬はくやしかった。 「うちに余ってたんです」と言って、七重がよこした指輪。それがこんなにも亜子の心を打つなんて。けんめいに考え抜いた自分の計画より、七重の思いつきのほうが、亜子を喜ばせたことに敗北感があった。  やがてくやしさは七重への感謝の気持ちに変わり、なんだか百瀬も泣きたくなった。  すると携帯電話が鳴った。依頼人からだ。  今回の依頼は『三毛猫誘拐事件』、急を要する。百瀬は亜子に「すみません」と断り、席を立つと、店のおもてで電話に出た。  亜子は百瀬のいない間に落ち着きをとりもどそうと思った。でもうれしさが止まらない。指輪をはめた瞬間に気付いた。自分はこれが欲しかったのだと。やはり指輪っていい。すごくいい。デザインもいい。色もいい。  ばんざい!  ミルクティーを飲もうとして、ふと、テーブルの上の荷物を見た。  鞄の中から出したものが雑然と積み上がっている。百瀬の私物だ。勝手にさわってはいけないけれど、ノートが一冊すべり落ちそうだ。  真珠の指輪がはまっている手で、そのノートを手にした。悪いと思いつつ、真珠の指輪がはまっている手で、パラパラとめくってみた。  驚いた。  それは秋田行きの綿密なスケジュールであった。待ち合わせ場所の候補、電車の時刻表、そして四時間半×二回に交わす会話の候補が五十八項目、そのほか、駅ですること、荷物を持つなどなど、細かく練っている。どれもこれも、亜子に選択肢をもたせる形で、いくつかのパターンが考えられている。 「会ったらまず荷物を持つ」は、ちゃんと実践できたが、注意すべきこととして、「嫌そうだったら無理強いしない」と書いてある。  亜子はくすりと笑った。  結婚相談所で三年間指南し続けた「女性とのおつきあいのセオリー」を踏まえつつ、みごとにすべてが微妙に女心とずれ[#「ずれ」に傍点]ている。四十にもなる男が、一生懸命、おかしなことに血道をあげている。その準備万端ぶりはオタクの域だし、まとはずれな努力ではあるし、人によってはこれを「気持ち悪い」と思い、「引く」だろう。  自分は三年間、担当相談員の特権をフル活用して百瀬の縁談を邪魔し続けたが、策を弄さずとも、百瀬は誰からもOKをもらえなかったかもしれない。  百瀬という男は、そうとう変である。  しかし亜子はこのへんてこなノートが愛しくてしかたがない。  百瀬も旅行を楽しみにしていたのだ。こんなにも!  それをあきらめ、彼が選んだのはおそらく「人助け」だろう。それも彼らしい。  会話の例として、亜子への質問を書き込んである。好きなたべもの、好きな音楽、アレルギー、それから、亜子の誕生日。母の誕生日も父の誕生日も聞きたいらしい。  笑える。  これだけの質問を用意して、今後実際にいくつ口に出せるのだろうか。今までだってチャンスはあったのに、こんなに簡単なことが聞けないなんて。  亜子は窓から外を見た。百瀬はまだ電話をしている。強い春風に、髪が爆発している。  亜子はノートに自分の生年月日を書き込んだ。  百瀬がもどってきた。ノートはもとの場所に戻っている。 「すみません、もう事務所に戻らなくてはいけません」  百瀬は言いながら、テーブルの上のものを鞄に入れ始めた。  亜子は微笑んだ。いつか書き込みに気付くだろうか?  百瀬のしたくが済むのを待って、亜子は立ち上がった。 「わたしも一緒に事務所へ伺います。野呂さんに挨拶したいし、七重さんにお礼を言いたいから。でもその前に」  亜子はちょこんと背伸びをし、百瀬にむかって手を伸ばした。そして百瀬の髪についているピンクの花びらをつまんで見せた。  百瀬の心臓が波打った。一瞬、亜子が母に見えたのだ。  なんどかまばたきをした。母ではない、婚約者だ。  百瀬は花びらを見つめて言った。 「近くに桜並木があるんです。満開を過ぎて葉桜になっていますが、わたしはその色合いが一番好きなんです。そこを通って行きましょう」  亜子はうなずき、赤い靴でゆっくりと一歩を踏み出した。      ○  平日の成田空港。  サングラスの女は出国審査官にパスポートを見せた。  土田とめ子と書いてある。  スタンプをもらうと、女はロサンゼルス行きの旅客機に乗り込んだ。  エコノミークラスの窮屈《きゅうくつ》な席に座ると、サングラスをはずした。切れ長の目はくっきりと大きく、しかしその瞳はどこか不安げだ。  これからコネのないハリウッドで、女優として一からのスタートだ。貯金は何年もつだろう?  現在六十三歳。二年で小さな役をつかみ、十年後には結果を出したい。  ちらりと左手を見る。薬指にはプラチナの細いリングがはまっている。  ベベが小さいとき、これを飲み込んでしまった。吐瀉物《としゃぶつ》と共に出て来たときは、ベベのためにも自分のためにもほっとした。  古い指輪だ。くれた男の名前も顔も覚えていない。女優としての未来をあきらめかけていた頃に出会った。  その男はなんと十回も司法試験に落ち、それでも弁護士を目指して勉強していた。金も才能もなく、ただ、勉強のあとが生々しい書物を山のように持っていた。可能性がないことに、これだけ時間を費やせるなんて。笑って済ませられない何かを感じた。  男としばらく暮らした。寝言にも法律用語が出てくるくらい、勉強ばかりする男だった。わたしはここまでばかになれただろうか? 自分の甘さを痛感した。  彼に比べれば、自分には美貌《びぼう》も才能もある。チャンスにめぐまれなかっただけだ。  男から指輪をもらった瞬間、再び夢にむかう決意をした。  そしてブロードウェイに行き、血のにじむ努力の末、小さな役にありついた。オフーブロードウェイと呼ばれる小劇場の端役だ。そこから「オン」へ進出すべくがんばった。  くじけそうになると、指輪を見つめた。「あの男と違い、わたしには才能がある」と自分に言い聞かせ、指輪をお守りにがんばり、結果、念ずれば通ず。ついにあこがれの舞台に立てた。しかし長くはもたず、十年後に帰国。日本では食べてはいけるが、やりがいのある役に恵まれない。ハリウッドにコネを求めたが、やはりああいうやり方は自分に向かないようだ。  ベベを息子に譲ったあと、ひさしぶりにこの指輪をはめてみた。するとばかばかしい挑戦をもう一度やってみたくなった。  手は正直である。最初にこの指輪をはめたときはみずみずしかったのに、今はしわもしみもある。つくづく歳をとってしまった。日本にいれば、この先数年は仕事があるだろう。アメリカへ行けば、新人に混じってオーディションの日々だ。  日本を出ると言った時、意外なことに家政婦が泣いた。あの家政婦は仕事が丁寧だし、うそをつかない。ノートを見ればわかる。割った皿の数まで書いていた。彼女のノートを読むとやすらぎを感じ、安眠できた。今まで雇った中で一番、良い仕事をしてくれた。女優仲間の家を紹介したが、最後までなごりを惜しんでくれた。  こうやって、自分を必要としてくれる人間を次々と捨てて行く。それがわたしだ。  夢を追いかけて追いかけて、いつかぽっくり死ぬのだろうか。  それもいい。今回は「終わりなき戦い」と決めている。  失敗はない。叶うか、叶う前に死ぬか。そのどちらかしかない。  飛行機は動き始めた。  女は微笑み、指輪にキスをした。 [#改ページ] [#ページの左右中央] [#地付き]本書は書き下ろしです。 [#改ページ] 大山淳子(おおやま・じゅんこ) 東京都出身。2006年、『三日月夜話』で城戸賞入選。2008年、「通夜女《つやめ》」で函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞グランプリ。2011年、『猫弁 死体の身代金』でTBS・講談社第3回ドラマ原作大賞を受賞しデビュー。受賞作は『猫弁天才百瀬とやっかいな依頼人たち』と改題され、2012年2月に単行本、3月に文庫を発売し、TBSでドラマ化された。著書に『猫弁と透明人間』『雪猫』(共に講談社)などがある。